硝子に触れて

 朝、窓を開けると冷たい風が身体中を撫でるから、慌てて閉めて、こんなに寒いのだから外出はしたくないと思いながら、今日の予定を無理やり立てる。お金が無くても用事がなくても家にいるのは嫌だし、外に出ると家に帰りたくって仕方がないんだ俺、幼稚園児かな、否、中年也。

 池袋西武の葛飾北斎展へ行く。俺は実家から歩いて渋谷に行ける距離だったこともあり、渋谷はとても馴染みがあるというか、愛着があるのだが、二十歳を過ぎ、新宿を利用する機会が多くなり、一時期は住んでいたこともあったので、新宿という街は気になる他人のような、友人の友人のような、自分のホーム感がいつまでたっても持てないけれどもそれなりに魅力的な街で、今日行った池袋という街は、それなりに訪れてはいるのだが、どう表していいのか、分からない街だ。

 ただ、俺にとっての繁華街というのは渋谷、新宿、池袋のみっつという固定観念があり、そのどれもがデパートとゲームセンターとがあるのだ。だが、はっきり言って、収入がヤバすぎる俺にとって、デパートは本来縁のない場所であるべき、というか単純に買い物に適していない。

 ゲーム大好きの俺なのだが、ゲームセンターで何かを見るのではなく遊ぶのは、年に一~三回程度。それも、誰かと一緒の時とか、そんな頻度だ。

 それなのに、デパートとか、ゲームセンターとか、その施設自体は大好きで、大変魅力的で、大きなデパートが閉まったとかゲームセンターが潰れたとかいうニュースを耳にすると、とっても悲しくなる。

 それらの場所は、インスタントな夢を与えてくれる場所、という認識があるから。お金で夢が買えちゃうなんて! なんて素晴らしい場所だろう! 

 だから俺はデパートやゲームセンターがある繁華街が、渋谷、新宿、池袋が好き、なのだが、池袋は、何だか肌にしっくりこない。理由は分からないい。もしかしたら、俺が渋谷と新宿を盲信しすぎているからかもしれない。まあ、とにかく、池袋西武に行ったんだ。

 葛飾北斎富嶽三十六景、というのはもう、有名すぎて皆知っているし、なんて思いながら展示を見ていたのだが、それらは思いの外よかった。何かを目にする度、いかに自分が物をよく見ていないかというのを感じるのだ。 

 富嶽三十六景は、正確には四十六点あり(好評だから十点追加された)、徳川家は「富士見」を「不死身」に繋がり縁起の良い物としていた、

 とかいうことすら知らなくって、有名な幾つかの作品を、これ、見たことあるなあ、程度の認識でしかいなかったのだが、まとめてみると、彼の作品の構図の巧みさに魅了される。

 有名な波の描写もそうだが、それ以上に感動したのが、何も描かない空間表現だ。

 現代美術の類を除けば、とっても雑に言うと、教科書に載る絵画=西洋絵画であって、美術館での展示も圧倒的に写実的であったり上手かったり情緒的であったりする「画面を埋め尽くす」画 が主流だが、日本画や墨絵における、空間の表現というのは、洋画にはない表現力を持っていて、元々メリハリの利いた派手な構図やらシンプルな表現が好きな俺は、日本画や墨絵の現物を見てはっとすることがある。浮遊しているような感覚に陥る。描かないことを良しとする。中断されているかのような完成品。

 こればっかりは現物を見なきゃなあ、と思う、幸福な瞬間だ。

 富嶽三十六景を見ていて、写真の展示が頭に浮かんだ。写真も小さな画面とか、雑誌のページで見るよりも、展示されている一群を見て感動する、という経験があるからだ。

 でもさ、写真だって印刷物。富嶽三十六景って浮世絵「印刷物」だろ、だったら美術の本でもいいじゃんか、等と思っていて、それは半分位正解のような気もするのだが、作品をじっと見る、しっかり何かと対峙する時間と言うのは何であれいい時間なのだ。

 とか言いながら、好きでもない人の作品は、実物よりパンフとかネットでみるだけで十分とかってのもあるけれどね! そっちの方が圧倒的多数かもしれないけどね! でもさ、何かをじっと見るって、感じようとするのって大切なことだ。

 俺は余裕が無かったりして、ついつい遮断しようとしてしまうけれど、感受性、生きてるうちは大切にしなきゃあね。

 森茉莉のエッセイでは食べ物とお洒落の話題が多いのだが、たまにデパート、百貨店の描写もある。そして、森茉莉はとても食べ物をおいしそうに描写する。彼女のエッセイを読み返していて、ああ、俺は美味しい物がそこそこ好きなくせに、舌の快楽を忘れていたなあと再認識してしまう。

 食べ物はある程度、値段と美味しさとが幸福な比例関係にあるといっても過言ではないだろう。分かりやすい例でいえば、激安スーパーの一斤百円の食パンと、スーパーの二百円のパンと、パン屋さんの三百円のパンと、それ以上の値段のパンとは、やはり味が違うのだ。まあ、調理する人の腕で、安い食材だって上等なものになるだろうが、生憎俺は料理ができない。

 ただ、幸か不幸か、俺はデパートの、食品売り場、特にケーキコーナーがとても好きで、お店ごとに小さな面積に並んで、ガラスケースの中で行儀よくお澄まししている彼らがたまらなく愛おしいのだ。もしかしたら、自分が食べるよりも、その光景を見る方が好き、という位に、ガラスの中で仲良く並ぶ甘味は可愛らしい。

 大量に、同じものが並んでいるというのが好きなのかもしれない。ウォーホルのキャンベルスープの作品も好きだし、外国の市場で山積みにされている野菜の映像にも惹かれるし、口に入れるよりも、もしかしたら、それらを見るだけでも十分楽しい、いや、口にしたら味を、現実を知ってしまうから、見ているだけでいい、

 なんて言っておいて、でも、俺もそれなりにデパートの地下で(値引きシールのついた)食品を買うことがあって、ちょっとだけ値が張る物は、ちょっと以上の驚きを与えてくれること位知っているのだ。

 長崎産の、一尾千円!のアジの干物は、最初目にした時、なめてんのかてめえと思って静かな怒りに震えたが、百貨店でいっつも彼、値引きシールが貼られてるんだよね、夜中まで売れ残ってるんだよね、でさ、買って食べたら、まあ、旨い、旨味が凝縮されているというか、干物ってこんなにおいしかったんだ、と自分の中の干物感が更新された気分になれた。

 一リットル500円の、蒜山ジャージー牛乳は、濃厚な味を想像して飲んでみると、驚くほど口当たりがよく、水っぽさがなく、後味がほんのすこし甘く、これ、すぐ飲み干せるぜ、みたいな美味しさだった。

 一パック180円位の、京都の大粒納豆は、大豆のうまみが強く、いっつも食べている三パック百円以下の納豆はたれで味をつけている感じがしたが、こっちの大粒納豆は、納豆の味でご飯が食べられるといった感があるし、大粒で食べ応えがあり、良かった。

 等と思いつくままに書き散らしてみたが、少し、お値段がして、美味しい物は山ほどあるし、少し、お値段がしたのに「何だこれ」ってのもそれなりにあった。

 つい、いつもの。つい、傷つかないように余計なことを考えないように、なんて保守的になりがちな所がある俺。というか、幸せな時間を過ごす努力を怠りまくっているなあ、と反省することしばし。そういう気質だから病気だから、というのは簡単だが、小さな幸福、ありもしない用事を作らなくっちゃ、綱渡り芸人やっていけないよってことで、ショーケースの中を、舌先の遊びを夢見て、今日はおやすみ。