手を離して

人生が、スカスカな気がする。それは、小説が書けていないから。イメージが浮遊していて、それを形にするのに難儀して、色々な言葉や文章をつくりかけて、あるべき形に立ち往生しているような。

 単純に、書きたい、という熱情が朧になっているような。

 やっぱな、二十代だと空元気でどうにかなっていたことも、三十代だと、ちょっときついな。騙し騙し誤魔化し誤魔化しの人生。俺が見たきらきらしたものは、経験は白昼夢のような錯覚か幻想のような気がしてくる。

 人が、作品が与えてくれたそれらは、ある時ふっと薄れ、霧散し、しかし俺の中に何かを残しているのだ。残された何かの幻を、偏執的に追い続けているのだ。

 形のない物を追い続けて、我が身と精神を苛み、おかしくなるのか。ずっと、寝ていたいけれどそんなことができるわけがない。ともかく、仕方がない。誰かや誰かの作品が欲しいんだ。

サントリー美術館 日本美術の裏の裏 見る。屏風絵、焼き物、蒔絵、等々。見応えのある、空間や余白を感じる日本の美術作品が集められている。全部写真オッケー!嬉しい!個人的に一番なのは、雪舟。写真では絶対に捉えられない繊細で調和した濃淡が本当に凄すぎる。

 たまたまだけれど、本で山下裕二が三十代で生で見て雪舟のすごさに気付いた、ということを言っていて、俺も全く同じ体験をしたのだ。何の気なしに、それなりに美術には詳しいと思っていたが、雪舟の「実物」をみてあまりの凄さにうちのめされた。こんな作品、他に誰が描けるんだって。主張も調和も全部ある。ケチをつけるところがない、という恐ろしさ。欲しいなあ。無理だけど。でも、欲しい位好きになれるって、いいことだ。手に入らないのにな。

 俺の人生、欲しいのはいっつも、手に入らないんだ。

器、陶磁器って不思議だな。俺は美術の作品はそこそこ見てきたので、自分の中の判断基準がなんとなくある。器についてのそれはだいぶぐらつく。なんとなく、高い安いは分かるが、好き嫌いが揺らぐ。じっと見ていると、別の景色が見える。美術なら、好き嫌いははっきりしてるのに。

 小説が手詰まりで、そのせいかめっちゃくちゃ陶芸したい。金の関係で絶対無理だけど。金のせいであきらめるって、ほんとださいな。でも、俺はどうにか生き延びて、本を読んで小説を書くのでせいいっぱいなんだ。

 とはいえ、何か作らなきゃ。作りたい。上手い下手出来不出来とかすぐ考えちゃう。そんなんじゃないのに。音が出るとか色が出る、それだけで楽しいんだって分かっているはずなのに。

 疲れていて、休みたいけれど休むのが怖くなってグダグダ。このダサイ負の連鎖止めなきゃな。

 雑記

高峰秀子のエッセイを集めた一冊、『高峰秀子の反骨』読む。単行本未収録のエッセイを集めたものらしいのだが、市川崑の『東京オリンピック』への不当な発言への怒りの文は読んだ記憶が。って、多分この本読んだんだ……というか、その文が特に素晴らしい。彼女の文章が好きなのは、誠実さと作り上げてきた強さが伝わるからだろうか。

十数年ぶりに、映画『アイドルを探せ』見る。盗んだダイヤを楽器店のギターに隠す。自首して取り返そうとしたら、五本のギターはスター歌手が買い取ってしまった!ドタバタコメディなのだが、久しぶりに見返したらえらく出来が良い!

敵役の口の悪い女の子は、キュートな悪女。主人公とそのパートナーは、最初は険悪なのに、気づけば恋に落ちている。おまけに実名でスターが登場して歌う!画面もセンスが良いしほんと素敵だ。シルヴィ・バルタンはもちろん、ラストのアズナブールの歌が染みる。

『ニッポンの奇天烈な絵画』読む。白隠若冲国芳、瀟白、山雪、芳年等々。有名どころが揃っており、見応えがある。教会により発展した西洋絵画のように、教化目的で描かれる残虐な九相図や地獄の鬼もいるが、民衆の俗根性を満たす残酷絵もまた恐ろしい。また、滑稽な絵やアニメに通じる表現もあり、

こういうのって、豊かって言えるような気がする。残虐さも滑稽もスタイリッシュもユーモラスも、楽しめたらなって思う。

ルノワール監督『フレンチ・カンカン』また見る。衣服の華やかさ、ロマンチックでほろ苦い人間模様、どこをとっても絵画のように美しい構図、素晴らしい音楽。この時代の品とユーモアがつまった美しい映画。エンターテイメントは人の心を豊かにする。

 元々素敵な映画だと思って再び見たんだけど、やっぱすごい。トラブルもロマンスも茶目っ気も、最後のシーンの圧倒的な映像と音楽の美しさで了解してしまう。圧倒される。

泉鏡花『海神別荘 他二篇』読む。豪華で幻想的で残酷な戯曲。身震いしてしまうようなうつくしさの骨子を作り上げているのは、鏡花の筆力と恐ろしい運命を受け入れる眼差しか。表題作はメロドラマの極北といった感があり、読み手は残酷と美の親和性に弄ばれる。

植田正治の没後、未整理のネガの束が発見された。その中から夫人の写真を中心としてまとめられた一冊『僕のアルバム』
二人は結婚式の日までお互いの顔も知らずにいた。
とのことで、数十年前の日本の習慣には驚いてしまうが、この写真を見れば、二人が幸せならいいじゃない、という気持ちになる。

萩原朔太郎作 金井田英津子画 『猫町』読む。薬物が見せる幻覚か、日常に潜む景色か、詩人の見る夢なのか。金井田のえがとても良い。彼女の文学に添えた画はどれも良いが、中でも一番かもって位好き。

 

 

 

アブー・ヌワース『アラブ飲酒詩選』読む。現世の最高の快楽は酒だとした、8,9世紀の詩人。平易でユーモラスな作風。
飲酒をとがめる人よ、いつ君は愚かになったのか?
礼拝と断食を形式主義として批判。世間の慣習から反抗した人は、老年真逆の詩を詠んだというが、はたして。

 

穴だらけな空疎な身体。楽しみなんて時折通り過ぎるだけで、常に何かをしていない、何かができていない、何かが駄目になるかもしれないって思っていて、気分が悪い。

 きつく握った、苛み、から手を離さなきゃな。不安に依存するのは愚かなことだって分かっているはずなのに。それがなれているから、心地いいんだ。でも、何か作りたいし、小説、書きたいんだ。

中年なんだ。毛皮か花園がなくっちゃ、生きられないよマジで

気分ぐらぐら。数十分先のことが、自分の精神がどうなってるのか分からない。取り繕うのとやっつけ仕事はそれなりに得意だけれど、いつ駄目になるんだろうって思いながらの労働は、とても不安定できつい。でも、足を踏み外したら、足の裏に生えている綱から飛び降りたら、楽だけれど、もう、立ち直れないかもしれない。

 恐怖が俺をゆさぶり、俺の足を前に前に動かしている。

 電車を降りるとき、ふと隣にいたスポーティな格好の青年の指先が、昔の青山のコムデギャルソンの壁のような鮮やかなオレンジ色をしている事に気がついた。きれいだ。彼の首の後ろには、数字が三つ並んでいた。見えない場所にタトゥーを入れている俺は、見える場所に入れている彼の気合いが眩しかった

 真実を目にしたら、きっと気が狂う。誰だって、誰だってそうさ。太陽は直視できない。でも、俺は自分のタトゥーは、結構好きなんだ。好きなんだ。自分のこと、一部分でも一面でも、好きだって言ったほうがいい。ある一面の真実。

渋谷Bunkamuraミュージアム「東京好奇心」見る。百人?だか、とにかく若手もベテランも国内外の写真家が捉えた日本、東京。知らない人の作品ばかりだったが、見応えがあった。やっぱりプリントで見ると違うのだ。森山大道の新宿の路地裏にいる猫を写した写真の黒は、比喩ではなく、艶めかしく

てらてらと光っているのだ。他にも構図は優れているなあ、といったファッション写真広告写真、という印象の作品も、プリントの鮮やかさと展示されたスケールの大きさで、ぐっとリアルに感じられる。会場のカタログでは、どうだろうって感じのでも、実物をみたら生々しさに感動するのだ。

三井記念美術館敦煌写経と永楽陶磁 見る。写経はさっぱり分からなかった! さっと見るだけで、もう満足だ。でも、派手な陶磁器が多くて楽しい。朱色に金の意匠や、翡翠色の緑、瑠璃や金泥。華やかな器たち。俺の好みの派手な意匠の物が多くて、意外というか、楽しかった。

 展示を後にして、売店でとても良い小鉢に出会った……一目見て欲しくなってしまったのだ。普段はそんなことは考えない。だって、俺はとても酷い生活をしていて、良い食器を揃えようなんて思考はない。

 でも、その小さなお茶碗というか、小鉢は、とても魅力的だったのだ。薄柳の肌に、赤子の頬の色が乗っかっていて、とても上品だ。値段は、数千円。小鉢と考えると、普段の俺なら絶対に出さないのだが、それは「作品」だった。欲しかったんだ。買っちゃった。

 調べると、坂倉正紘という方が作ったらしい。萩焼きで、落ち着いて上品な色合いがとても素敵だ。青菜のおひたしなんかが映えそう。普段は作家の人が作った器を買うことがないから、美術館での出会いに感謝。

 情けないことに、俺はしょっちゅうお金に困っているんだ。いつも収入が途絶える恐怖と戦っている。だから、限られたお金は有効に使わねばと思っているし、ついお金を使えなくなるんだ。

 でも、買ってよかった。多分、今買わなければ二度と買えないものだったから。数千円で悩むなよ俺、ダサいぜまじ。でも、買ったから買えたからよかった。

 欲しいものを買う、そんな当たり前のことで、好きな物を好きだって言うことで、きっといい方向に行くって信じて。

 雑記。

夏目漱石 画・金井田英津子夢十夜』読む。俺のベッドの周りには未読の本が何十冊も散らかっている。よりにもよって、自分で見た悪い夢を勢いに任せて書き散らした後に、漱石のとても美しい夢の短編を読むなんて。たまたまなのに、妙な心持ちになる。

真・女神転生if…のコミック、作・柳澤一明のを久しぶりに読む。初めて読んだのは高校か大学の頃か?
今のポップペルソナ路線も好きだが、初期、罪罰までのペルソナ(とif)のダーク・ジュブナイル感ほんと好き。久しぶりに読んだコミックは、一巻しかないのに原作を上手く消化していて

テンポ良く、ハードな展開も不穏なラストもよく、すきでまた買って読んだのだが、記憶の中よりもさらに出来が良かった。
昔、1999年辺りって、終末感やらインターネットの普及とかが、独特のほの暗い魅力を作り上げていた。悪夢に、悪魔に憧れる。便利な時代の新しい悪夢はどこだろう?

A・A・ミルン作 E・H・シェパード絵『クマのプーさんとぼく』読む。ミルンの子供のための第二詩集で、『クリストファー・ロビンのうた』の続編のような一冊。前作同様とても素敵だ。わがままで好奇心旺盛で何でも楽しいし不安だしわくわく。そんな子供の未知ばかりの日々を思い出させてくれる。

文 泉鏡花 画 中川学『朱日記』読む。不確かな語り部の言葉から広がるのは、茱萸の実、赤い毛の猿の群れ、裸に赤ガッパを着た巨大な坊主。この世のものとは思えぬ少年と女性。広がる妄想と火の手。中川学の画はモノクロと赤で描かれ、その迫力に「わっ」と慄く。

four tetのangel echoesほんと好きで折に触れて聞きたくなる。すごくきれいなアンビエントなのに、聞いてると何故だか不安になってくる。ゴダールのフォーエヴァー・モーツァルトの、許されずに延々と反復させられるみたいに、大好きなのに、苦しい。でも魅了されている

 

この作品が、漱石の中で一番好きかもしれない。漱石の冷徹さ、冷静さが幻想に豊かな輪郭を与えてくれるのだ。金井田の画が、とても良い。学校の教材に漱石のこの小説と共に載って欲しいレベルで良い。漱石の小説の影となり日向となり、彼女の絵はシュルレアリスムの最良の部分のようだ。

ローベルト・ヴァルザー詩 パウル・クレー画『日々はひとつの響き』読む。あまり有名ではないが、スーザン・ソンタグらが評価した詩人の文とクレーの画のコラボレーションをした一冊。俺には詩の良さがあまり。クレーはとても好きなのだが……優しい詩なのだが、クレーのはもっと哀しみも怖さもあると

内田百閒作 金井田英津子画『冥途』読む。内田百閒の奇妙で怖くなる短編に金井田が絵を添える。彼女の絵がとても合っている。グロテスクではなく、人間や自然は、よく見ると怖いものなのだ。特に短編の件(くだん)は、恐ろしさと滑稽さがあり、文も画もとても良い。

井伏鱒二 金井田英津子『画本 厄除け詩集』読む。井伏鱒二は好きでそこそこ読んだつもりだったが、詩は初めて。目を通すと、短くユーモラスで穏やかな観察眼で、彼の文章に近い物を感じた。収められている詩の数が少ないのは残念。

平野甲賀『きょうかたるきのうのこと』読む。グラフィックデザイナー、装丁家の著者が書いてきたエッセイ集。彼のデザイン、書体はすっきりしているのにインパクトがある。これは中々出来ることではないと思う。文は、著名人との交友や発言が多く、とてもエネルギッシュな方だと感じた。

水木しげる悪魔くん魔界大百科』読む。水木しげるが妖怪ではなく、世界の悪魔や秘術を紹介する。悪魔と言えば、大好きな女神転生悪魔絵師金子一馬のイラストが頭に浮かぶ。原典、昔の人の妄想を形にした物を、絵師がアレンジを加える。誰かがかいた、[見た]悪魔の姿を沢山見られるのは喜びだ

 

高峰秀子『巴里ひとりある記』再読。幼い頃から親の都合で働き続け、気づけば20年以上働き大女優になっていた彼女の、逃避行の様な留学記。後年の文章に比べると、かなり若くて素直な文章。でも、時折強さや哀しさが顔を出す。彼女は辛さを乗り越える強さがあるのだ。

 色々と問題はつきないけど、やって行こうって思えるのは、美術館に行ったからか。しょうせつを少し、書けたからか。

 素直に生きるっていつもこんなんだ。でも、それなしに前に進めないから。

 器だけじゃなくて、タトゥーも、もっと入れたい。中年なんだ。毛皮か花園がなくっちゃ、生きられないよマジで

 

中年が見た夢の話

もの凄く、嫌な夢を見た。以下長文。

中学の時の顔見知り程度のクラスメイトと再会して、その日の数時間後に電話で場所を決めて会う約束をした。彼は何故かとてもうれしがっていて、俺も嬉しくなった。代官山で時間を潰していて、とても高い場所でスマホiPodを落としてしまった。学校で落とした➡

らしいのだが、どうやっても落としたらしき場所には辿り着けず、約束をしたクラスメイトにも電話が出来なくてとてもあせり、街を歩き回る。その時、町の路上で写真の展示をしていた、絶縁した元親友と再会した。夢の中なのに、十年以上たった親友の顔が分かったことに俺は驚く。友人とは酷い別れ方をしたのだ➡

俺とその友人は、大学時代の親友だった。有人が少なく、気難しい俺だが、彼は親友といえる存在だった。お互い物作りをしていて、俺は彼の作品と優しい人柄が「友達」として大好きだった。辛辣な俺だが、彼は荒削りだが才能があると思っていた。俺も彼も、自分が思ったような華々しい成功を得られないことに内心不満だった。➡

そんなの、若い芸術家(志望)ならみんなそうだ。俺は元々すれていたので、人に分かってもらえなくても、作品が作れたらわりと平気だったが、彼はそうではなかった。大学卒業後に会った彼は変わっていた。詳細は書けないが、俺はとてもショックを受けた。でも、変わってたのは美術業界でのし上がる➡

功名心だけで、それ以外はちょっと無神経で優しい彼のままだった。その時の俺は、幼稚で潔癖で、彼の変化とある行為が許せなかった。そこまでして有名になりたいのかと、彼が嬉々として話す内容に耳が痛かった。芸術家は、作品を作れれば他には何もいらない。そんなことが綺麗事だって、二十代の➡

俺でも分かっていたはずなのに。親友との仲はギクシャクして、俺は池袋のジョナサンで彼を呼び出して、何で俺が怒っているか、彼を傷つけないように説明をした。でも、わかり合えなかった。俺は辛くて、千円札を机に出して店を出た。俺みたいに口が達者ではない彼は何も言えず➡

さめて固まったパスタを前にうなだれていた。別れ際にちらりと見た、彼がうなだれ傷ついている姿は、今もはっきりと記憶している。それ以来、彼とは音信不通だ。
その彼と、夢で十年以上ぶりに再会した。俺は戸惑ったが、夢の彼は笑顔だった。写真の展示をしていて、少しだけ話した。当時のことなんて➡

口に出さず。俺がスマホiPodを探していることを告げると、彼は手伝ってくれると言ってくれた。とても嬉しかった。彼と仲直り出来た気がした。親友の隣には、小柄で仲良さげにしている男性がいた。三人で歩いていると、その人が何か口ごもっていて、俺はピンときて「仲良しだね。付き合ってるんだ」

と言った。彼らは「あれーばれたかー」みたいにおどけて、ほっとしているようだった。大学の元親友は、異性愛者。俺は恋の相談を受けたこともあった。親友から恋の相談を受けて、少しだけ嫉妬する。ゲイ(俺)ならよくある話、でも俺は覚めていて、彼の恋の成功を願っていた。それなのに、夢の元親友➡

バイセクシュアル?ゲイ?になって、恋人が出来ていたことにとても胸が痛くなった。でも、俺は彼を傷つけ友情を壊したのだ。自分の胸の痛みは、汚い感情だと思った。三十代になった俺らは、それなりに、傷つけ合わないような会話をしてまちを歩いていた。気づけば、俺は代官山ではなく池袋にいた➡

元親友がバスに乗って代官山へ行こう(そんなバスは実際はない)と言って、バス停で待っていたのだが、その彼がどこかに行ってしまい、彼の恋人と二人きりになった。その瞬間、彼の恋人は豹変した。「お前は俺の大切な人を傷つけた。許せない」と悪意を向けられた。それは事実だが「何で急に彼を➡

嫌いになったのか理由を言え、とキツく言われた。でも言えっこなかった。俺の告白が元親友の名誉を傷つけるおそれがあったから。その時、俺は走り出し、元親友がいるトイレの個室にたどり着いた。彼は大泣きしていた。彼は何か言っていたけれど、別れのファミレスの時みたく、話しはかみ合わず➡

要領を得なかった。その時に俺は、彼の容姿に「老い」を見たのだ。俺らは二十代ではない。おっさんだ。泣いて傷ついた友人に心を痛めながら、造形の老いについて冷静に注目する自分は、芸術家気質で、人でなしだと思った。俺はまた、彼を傷つけ慰めることもできなかった。➡

彼と別れて、池袋の街を歩くと風俗店が並ぶ通りがあり、誰でもいいからセックスがしたいなあと思いつつ、スマホを探していた。辺りは暗くなっていた。約束をしたクラスメイトに理由を話して謝りたかった。だけど池袋から代官山はいつまでたっても歩いて辿り着けない。夢の中の俺は、代官山と池袋は➡

隣の駅だと思い込んでいた。何度もきゅうな坂を上り、ヘトヘトだった。そして、どうやら代官山に到着したらしい時に目が覚めた。
最悪の気分だった。でも、元親友が今回の事では傷ついていない事実に気づいて、ほっとした。きっと、彼は俺とのことなんて忘れている。二度目➡

に傷つけた事実がただの夢だったのだと思ったら、涙が出た。
今の俺は、かなり酷い不安定な生活を続けている。色々と状況は悪化しており、二十代の空元気ではどうしようもないことに直面しながらも、俺には空元気と芸術位しかないのだ。ただ、はっきりと分かるのは、自分が小説➡

をかく力は、明らかに上達したと言うことだ。十年以上続けているのだ。当たり前だが、それは小さな救いになる。
でも、俺はもう親友とは会えないしあの頃の友情は戻らないのだ。それは、やはり辛い。つらいけれど、芸術があると生きていける。俺は芸術至上主義ではない➡

でも、芸術は現実にないものをみせてくれるのだ。めまいと錯覚を与えてくれるのだ。二十代も今も、頼りが処方箋と芸術。でもさ、それだけでは足りないんだ。足りないのにいきていけちゃうんだ。


小さい頃から、神様がいたらいいなって思っていた。自分に救いをもたらさない、残酷さすら生温い➡


神話の中の人間なんてゴミくずとすら思わない、傲慢で絶対の存在がいたらいいなって。そりゃ、優しい救いの神様がいたら嬉しいけれど、小さい頃からそんなのはいないと、根拠なき確信を抱いていた。
どこにもいない、でも大好きな神様。貴方のことを考えると、少しだけ気分が楽になるんです➡

頻繁に、貴方のことを考えて、神様的な絶対者に憧れる登場人物を描きました。絶対者に憧れる人は、大抵不幸になりました。でも、憧れは愛情は友情は、たまに美しいものだと思います。俺の作る小説の一部分は、光が反射した硝子やガソリンのようにきらきらしている事でしょう➡

まあ、それは大抵の作品はそう言うものだと思います。感受性や経験や知性は、目にうつしたものの輝きを捉える事ができるし、出来映えはともかく、作品は誰かにとっては輝かしいものですから。でも、神様、俺は貴方に近しい輝きを持った小説を書いてみたい。そんな不可能な➡

夢物語を糸にして綱を編み、観客のいない綱渡り芸人を続けています。大体毎日、綱から飛び降りたいと思っています。でも、それをしないのは愚かにも傲慢にも自分は永遠に若く、老いるときに死ぬのだと思っているからかもしれません。そういう強がりを自分に言い聞かせ➡

かまさま、貴方や元親友への愛情なんてものは持っていないんだよって、輝きに目を背けて小説を書くことで、錯覚ができているのかもしれません。辛いのに、俺は色んな人や作品に愛情のような一方的で気持ち悪い恋文のような感謝を抱いているのです。げんなりする。気持ち悪い。でも、俺は若いから。

泥の中から病巣も花園も

 気持ちがとても沈んでいた。やりたいことは分からないのに、不安ばかりが増える。毎日、数十分、数時間ごとに気持ちがぐらついて辛い。生きていてこんなのばかりなんだって、改めて感じると、もう、駄目だ。

 薬を飲んで寝る。こういう誤魔化しで、目隠しで、どうにかなるのか。ただ、頭と体が駄目になっていくのを見て行くだけなのか。でも、抗いたいんだ。そうじゃなきゃ、死んでいるのよりも哀れ。

 

 

静嘉堂文庫美術館で能面見る。能を見たのは中学生ぶり。服と同様、人が身につけて初めて真価を見せる物だと思うが、現物をゆっくり見られて良かった。初期のプリミティブなデザインが特に好み。解説と共にじっと見ると、能面(若い男役の)にも色気というか、品があるように見えるから不思議だ

恐ろしい姿をした面も、一つの面でいくつかの配役を兼ねる(場合もある)らしい。鬼にも物の怪にも神にも精霊にも変化する、それを受け止める面。それに演じるひとが介在するとなると、シンプルな意匠の方が映えるのだろうか。駅から遠い(スマホナビありで徒歩30分。帰りは15分)けど、行って良かった。

てかさ、やっぱり現物は生々しさがあってさ、それはどんな高性能のカメラでも動画でも伝わらない。俺が現地のオーロラの美しさを知らないような感じ。剥落やヒビ、というのが大好きなんだ。年代を経た物が持つ魅力。千年以上前の美しさを感じられる幸福。

 会場は狭く、展示の数も少なかったが、そのおかげで三周もできた。じっと、能面を見ると、その微妙な色遣いに官能を感じた。一番初めに展示されていた、伎楽面というのがとても良かった。七世紀、中国から日本に伝えられた仮面劇。元々仮面が好きなのだが、人のような肌をしているかのようだった。存在感があった。生々しさがあった。剥落さえ人間の老いの証の様に見えたのだ。

 こういう作品を見られて感じられると、自分が生きていて良かったと思えるんだ。少しの間だけ。少しの間だけだけれど。

 でもすぐに気持ちは落ちて、数日後の休みに何とか青山ブックセンターに。いっつも、高い外国のファッション誌や写真集を立ち読みする。本当は買ってお店に貢献したいんだけどね。欲しいのは高いんだ。それに図書館で借りて読んでない本が、他にも読んでない本がたまっているんだ

 ふと、棚から手にしたラリークラークの第一写真集TULSAを手にする。初期のラリークラーク大好き。どうしようもない空気がある。どこにもいけない駄目な若者たち。

 値段は4500円位で、あれ、俺が買った時はその半額位だったよな、とアマゾンで検索すると、半額位で今も買えた。そして、おれがその写真集を購入したのは十年前だと表示されていた。

 十年前の俺と、今の俺はほとんど変わっていない。でも、年老いて、色々と駄目になって行っている。二十代の頃はなんとかなるっておもっていたけど、なんとかならかった。でも、生きているんだ。

 ただ、二十代の時よりも色んな表現、芸術への理解、感応は広がった。小説も今書いている方が好きだ。俺は俺が書いている小説が好き。それだけで、今生きている動機になる。でも、これはヒロイックで大袈裟なことではなくて、その位自分には持ち合わせや頼りになる物がないって。それだけのことだ。残念。

 

映画『プロメア』見る。前にみたキルラキルが面白かったから、期待していたのだが、期待以上に面白かった。ド派手でぐりぐり動くアニメーションに王道ストーリーが熱い。ゆらめき広がる炎、四角形が増殖する氷の表現の対比が良い。後半はそれらが混じり合いエネルギー体みたいにもなるし、

見ていて飽きないんだな。最新のアニメの力ってパワフルだって思えて楽しかった。ただ、レビューを見ると、この監督の作品のファンからは賛よりの賛否両論みたいだった。普段あまりアニメ見ないから、熱心なアニメファンの不満は見ていて興味深かった。俺も自分の好きなのにはつい色々言いたくなるんだ

 

 

ずっと見たかった、映画『狂つた一頁』見る。1926年の映画なので、どうしても仕方が無いとは分かるのだけれど、色々気になってしまう。構図もライディングもかなり……モノクロ映画大好きなんだ。俺はモノクロのハイコントラストなのが大好き。でも、仕方ないけど、ぼやけるしチラチラするし

画面も締まりが無い構図が多い。でもね、面白かったんだよなー。特にラスト10分の車、白い花(外の情景)お面(能面?)とか、たまに、はっとするような表情を見せる女性。優れた作品だと思うが、(年代的に仕方ないけど)ボケボケな画面だから手放しで褒められない。でも、見られて良かった。

A・A・ミルン作 E・H・シェパード絵『クリストファー・ロビンのうた』読む。有名なプーさんの作者が、自分の息子に向けて書いた詩集。とても良い。リズム感のある文章と好奇心旺盛な子供の視線があって、子供でも大人でも楽しめる。挿絵もとても良いしこの本に合っている

『レオナルド・ダヴィンチの童話』読む。ダヴィンチはスゴイと思うが、特に好きという訳ではなかった。でも、籠に掴まった小鳥に自由がないと毒を運ぶ親、炎に惹かれて身を焦がし死ぬ蝶、岸辺の百合に恋した水は百合を溺れさせる、等々ユーモラスなのもあるがハードで自然の光景に引き込まれる

童話っているのは、世間や自然の豊かさや厳しさ残酷さを伝えるものかもしれない。それを考えるとダヴィンチの童話はとても良くできていると思った。

ダイの大冒険の新しいアニメ見る。懐かしさと共に新しい画面が楽しい。アニメに詳しくないしたまにしか見ないので、技術の進化に驚く。一部3Dモデルみたいなのが主流なのだろうか。公式で見られたから、アイドルマスターのジュピターの話を見たら、30分で見せ場詰め込んでいてとても面白かった

少し前のアニメ(映画?)だと思うが、ライブシーンの演出も良かった。でも、ライブシーン、キャラが歌って踊るのって手描きで描くのはもう金銭的に現実的ではないのだろう。アニメに詳しくない俺は、ジブリやディズニー映画のアニメーションが好きだ。それはお金と時間をかけているからか、

キャラクターがちょこちょこ余計な動きをするのだ。それが見ていて目を奪われるし楽しいのだ。ヌルヌル動くってやつ?でも、お金か時間がないと余計な動きを与えるのは難しいはずだ。見る方としては知らない、或いは生き生きと「動く」のを見るのが楽しいのだ。

ふらりと入った古書店で、棚に並んだ上田敏海潮音』の値段見たら、初版六万五千なり。こんな高いんか!ちなみに同じ店に文庫版あってこっちは二百円。プレミア古書の世界は分からん。マラルメの本もあって、こちらは一万五千なり。うわ!安い!ってなるか!俺の目玉三千個売らなきゃ買えない

植田正治写真の作法』読む70,80年代にカメラ雑誌に書かれたエッセイをと集めた一冊。長く続けているカメラマンといったら曲者のイメージがあるが、丁寧で腰が低い文章!それでいて野心は捨てていないし自身をアマチュアと言いアマチュア=挑戦者の諸君へ呼びかける文は熱く今読んでも読み応えがある

 

藝術新潮編集部 編『萩尾望都 作画のひみつ』読む。原稿やクロッキーが見られるのが嬉しい。絵の繊細さは勿論、インタビューにて彼女が「読みやすい漫画」を描こうとしているのがよく分かる。細かい描写でも、よく見ると全体が調和していて理解出来るのだ。後、初期の瞳の円形白抜き表現好き。

 

 

タイムラインにポロックの名前が出てきて、少し懐かしい気持ちになる。抽象画で一番有名なのは彼だろうか。有名な作家の作品は画集や展示に出会える機会が生まれる。でも、資金難で、ニューマンは高額で身請けされた。サイ・トゥオンブリはまた見たい。クリフォード・スティルは現物を見たことがないな

 好き、な気持ちが、感受性が摩耗して、不安ばかりが病巣が花園になるならば、俺はもう駄目なのかなあと思う。まあ、だましだましやっていっているんだきっと、みんなたぶんそれなりにきっと。

 最近は小説を書いていないから、それも精神的に沈んでいる原因だと思う。でも、力がないと残酷や輝きを精緻に捕えようとする気すらおきない。

 こういうどうでもいい言葉を吐き出すことで、少しずつ泥の中を泳いでいけたらな。いいんんだけどな。

冬の入り口で少し

夜、少し窓を開けるとひんやりした空気が部屋に入ってきて、吸い込むと真夜中の温度。そのまま寝てしまって、目覚めると布団をかけているのに程よく肌寒く、異国の温度。毛皮が欲しい。毛皮を着て、寒い風を全身で受け止めたい。

 後二ヵ月で今年が終わると思うと、何だか何もしていなかったような気がしてしまう。コロナ騒動と、新しい職探しでかなり負担が大きかった。それでも、一応自分の小説を書き終え、新しい小説もちょいちょい書いていることを考えると、自分なりにできてはいるのか、とも思う

 俺は色々と問題やら不安やらが多く、常に自分のあれがこれがそれが出来ていない、と考えてしまう性格で、その判断が正しいとしても、あまり自分を苦しめて疲れてやる気がなくなるというループは止めなければと思う。

 あと、どの位頑張れるのか、と頻繁に思う。早く楽になりたい。そんな思いを振り払うのは、外に出るのがいい。何も解決しなくても変わらなくても、音楽を聞きながら歩いている時間は幸福なのだから

久しぶりにDir en grey聞いたらめっちゃ上がる。90年代V系の密室暗黒血鎖翼退廃薔薇天使とても健康に良い。プラスティックトゥリーや黒夢やラファエルとか今も好き。大袈裟で攻撃的で装飾過剰は人に幸福をもたらす。

ラファエル聞くと失われた天使が補充される(?)
天使力高いバンドは他にいるのかな。是非、ミカエル ウリエル ガブリエル。メタトロンサンダルフォン君たちは神様の奴隷なんて辞めて、哀れな子羊の為にお化粧バンドデビューして欲しい

雑記

 

泉鏡花作 金井田英津子画『絵本の春』読む。泉鏡花が語る、日々の生活に潜む怪異、幽冥。魅惑的で怖ろしい瞬間に瞬間に立ち会ったと思ったときには、それらは奇術のように姿を消してしまうのだ。金井田英津子氏は知らなかったのだが、鉱物のような静けさを持った画でとても良かった。手軽に楽しむ怪奇

 泉鏡花は本当にいいなあ。でも、読むと体力が持って行かれるので、さくっと読める短編はとてもありがたい。泉鏡花は、二十代の頃食わず嫌いしていたんだよなあ……もったいないことをした。って、今も読んでいない作家リストが沢山……それを消化する作業を思うと楽しくもうんざりする。

一生、読んでいないリストを積み上げ続けるのか。

 

いしいしんじ『みさきっちょ』読む。著者が三浦半島のさきっちょ、港町、三崎で暮らした記録。三崎の人達が、街を生活を楽しんでいるのが分かるから、読んでいて豊かな気分になった。どうしようもない人も、どうしようもないことも受け入れる寛容さ。生活と出会いは人を強く、優しくする。

 昔いしいしんじ町田康が本を出していた。いしいしんじ町田康も、人がいいなあと思ったんだ。これは誉め言葉だ。彼らの真面目さ素直さはっちゃけっぷりが、人をひきつけるし、いろんな出来事に参加するんだ。

 ただ、俺はむやみやたらに神経質でぐらぐらふわふわいらいらしていて、そういう人の文章やら作品やらが一番好きなんだ。今生きている映画監督で言うと、ゴダールとかハネケみたいな。めんどくさいジジイの作品が胸に刺さる。

 本を読むのだって、一応交流ではあるけれど、誰かとの交流を気軽にしている(ように見える)というのは、すごいなあと思う。自分にはできない、と思い込んでいること。

 根性ひん曲がったおじさんたちの作品が好きだけれど、健康的に生きて正常な判断力で作品について考えたり作ったりしたい。困難だけれども。

映画『25名画の秘密』見る。有名な絵画を数分で、早めのテンポで紹介。一部を強調したり、題材を消したり浮かび上がらせたり、映像で見るべき点や主題についてレクチャー。高校の美術の授業の前に数分間流せばいいのでは?と思った。日本のそれとは違い、余韻より効率!な感じで好みは分かれそう

『ドイツ菓子図鑑』読む。お菓子のレシピと写真が載っているが、図鑑ということで、お菓子の由来も記載。

ドイツのフレンチトーストはアルメリッター 貧乏な騎士

ゲッターシュパイゼ 神々の食物 と言う名前でシンプルなゼリー


リーベスクノッヘン 直訳は愛の骨で エクレア 読んでいて楽しい

八雲立つ出雲』読む。写真を植田正治、文章を古代史研究家の上田正昭が書く。神秘的な写真も素晴らしいが、神話と現実を通じる道を開く文章もまた良い
海からきて海へ去る神々が出雲神話には語られている。夜見(黄泉)のくににいたる入口は海辺に求められている。神が訪れるのも人が死んで赴くのも海

 

ドキュメンタリー映画グレン・グールド エクスタシス』見る。クラシックに詳しくないのだが、集中したい時は、グールドのバッハをかけっぱなしにしている。彼が歌いながら鍵盤の上で手を踊らせる姿を、映像として見られたのは嬉しい。学生の頃は、彼のCDを聞いて唸り声が入っていて恐いと思った

年をとり、色々聞いてそれなりに音楽には詳しくなったが、クラシックは鬼門だった。名前が覚えられないし、飽きてしまうのだ。そんな集中力のない俺が大好きになったのが、バッハ、そしてグールド。彼に関する本は沢山出ているが、読んでいない。クラシックの知識も情熱も欠けている。いつか読むのかな

高峰秀子 松山善三 著『旅は道づれツタンカーメン』読む。女優とシナリオライターの夫婦の、旅行記。軽快な掛け合いが楽しい。エジプト、ということで生死や生まれ変わりやら猥雑な町等に二人は思いを馳せる。対照的な所もあるが、二人は互いに強い敬意を抱いているのが伝わり安定感があるのだ

 

筒美京平の訃報を聞く。悲しい。
スーファミいただきストリート2は、全曲筒美京平作曲なのだ。ものすごく豪華だなあ。そして、捨て曲なんてなくて、何度聞いても飽きない。とびきりポップでちょっぴり切ない彼の曲は、日本人好みの楽曲のような気がする。

 冬の入り口で少し戸惑う。毛皮のことを体温のことを思って触ってやりすごしていかなければ。

けだものよ、一時の安らぎを、鎮痛剤を幻覚剤を。

かき終えた小説を見直し、応募する。俺は色々と雑なので、読み返すたびに細かい間違いに気付く。というか、大なり小なり差はあってもプロアマ問わずそうらしいんだけども。

 小説を書き終えてほんの少しだけほっとしても、それが俺に何かの余裕をもたらしてはくれないのだ。でも、俺は書く位しか楽しみがないのだ。だから書き続けなければ。

 とは思っていても、思うように書ける日の方がはるかに少なく、毎日のように書かなければとかどうかこうか等と思いながら、いらいらそわそわ

 疲れたまま、銀座で映画『ワイルドライフ』を見る。森で暮らしていた家族だが、母親が生活に嫌気が差し、子供を連れて実家に戻る。その後親権は母親へ。母親は1週間の約束で、父親に二人の息子を預けることになるが、そこから親子の逃避行が始まる。登場人物を画面中央に配し寄りのカメラで写す、という構図が続き、

見ていてとても疲れるし、辛い。幸福なひとときよりもずっと、トラブルが多いのだ。親子で罵り合い、逃避行では様々な人とも問題が起きる。ラストシーンでは泣いてしまった。人物の表情をずっとうつし続けていたから。争いばかりなのに、争いたくないのだ。でも、どうしようもないのだ。それが伝わる。

前半で、子供を奪われたエゴイスティックな父親が、妻の実家の前で大声で子供を呼ぶシーンがある。父について行くことになった男の子が放浪生活の中で十年たち、窮屈な生活から親に反抗する。

 彼はガールフレンドになった街のお嬢さんに、放浪生活での重ねた嘘から、不審に思われてふられてしまう。その時に、反抗していた父の様に、恋人の家に忍び込み、同じように大声で名前を呼ぶのだ。

 何度も、彼らは家族で罵り合い、名前を呼び合う。とても辛い。映画の手法としては、正直一発アイデア勝負的な見づらさ(ほとんどずっと寄りの画面ばかりなのだ)があるので、映画として「美しい」とか「高得点」、とは思わないのだが、それでも俺はこの映画がとても心に残ったのだ。好きなんだ。閉塞感不安感を感じたのだ。そして、交差するぶつかり合う愛情を。

見ていて、今の自分の様々な嫌なこと心配ごとを思い出してしまった。俺の生活も一時の幸福を鎮静剤にしている、逃避行のようなものだ。ずっと、逃げ続ける人生。

見た後すぐ、同じエルメスで『ベゾアール(結石)』シャルロット・デュマ展見る。結石は、動物の身体に形成される凝固物。まんまるで白いそれを、人はお守りにしたり、神秘を見いだす。北海道から沖縄の与那国島まで、人と馬との共生の姿を捉える。馬の表情を感じるかのような、写真がとても良かった。

 写真集が欲しくなるくらい、馬が可愛らしかったのだ(今回会場で販売はしていないようだった)。たまたまだが、俺は朝完成させた小説で、主人公の少年が知り合いになった外国の少年を「馬みたい」と褒めるシーンを書いていたのだ(馬みたいと言われた少年は当然なんだこいつ、みたいな反応をするのだが)

 主人公の少年にとっては、馬は優しく気高い存在で、体温、平熱が人間より高い、獣の温度を持っていた。だから、外国の友人をそんな風に褒めたのだ。

 幻想の中の馬。それも素敵だが、この展示を見て俺も馬が触りたくなった。この展示では、馬の「表情があるかのような」親密な写真が並んでいて、素敵だった。

 俺は犬猫大好きだが、犬猫などに「哀しい顔」をしている、という見方は嫌いだ。人間が勝手な自己投影をしているように思えるのだ。動物は人間の感情からは自由だ(或いは人間とは違う価値観で活きているのだ)。それを矮小化しないでくれ、と思うのだ。

 マーク・ロスコの抽象画に感情移入しているひとが自慰的に見えてしまう、ということが想起され、それは大学時代から俺が思っていたことで、山下裕二が著作で似たようなことを言っていてびっくりしてちょっと驚いた。でも、誰か、と同じようなことを考えるなんて感じるなんて、ちょっと長く生きていればよくある話だ。

 でも、俺のこの身勝手な感情を共有してくれるような友は、俺には現れないだろう。

 マーク・ロスコの抽象画は嫌いなのに、ポロックやダン・フレイヴィンやサイ・トゥオンブリのそれはとても好きなのだ。

 こんなことばかり考えていて、こんな話を気軽にできる人なんているわけないので、俺は黙るようになっていて、こういう場所でどうでもいい独り言でさえ、口を噤もうとしている。

 でも、喋らなければ、生きている意味がない。誰の人生だ?

 俺のだ。だから、何も手ごたえが無くても、俺は書き続けなければ、喋り続けなければ、死んでいるのと同じだ。

 だけどさ、こんな生活をずっと続けていると、おかしくなるんだ。早く放浪生活綱渡り芸人終わりにしたくなる。

 けだものよ、一時の安らぎを、鎮痛剤を幻覚剤を。

 自分が幸福な生活をおくる、というのにまるで現実味がない。だけどさ、それから目を背けることはしない方がいい。誰かの作品を見て、触れて、動物の植物の鉱物の、人の運動を生命を感じて、感応できるように。俺は、それが好きなんだ。

 雑記

11月に新宿TSUTAYA歌舞伎町店が閉まるって。そんなに広さはないのに、結構マニアックな、古い映画のラインナップが揃っていたのだ。このご時世仕方ないのかもしれないが、残念。ありがとうございました。

過小評価されてると思う私的に最高な邦楽
ふぇのたす/胸キュン’14
桐島かれん/ディスコ桐島
空気公団/「ここだよ」
清水愛/発芽条件M
田島貴男長岡亮介/sessions
桃井はるこ/momo-i quality
plagues/california sorrow king
ceiling touch/into U kiss
de de mouse/dream you up

過小評価、の基準がよく分からないので単に自分の好きなアルバムになってしまった感が……既に評価されているとしても、個人的にもっともっと!なアルバムを選んでみた。

大村しげ『しまつとぜいたくの間』読む。大正生まれの著者が、京ことばで京都の暮らしや食べ物のことを綴る。親から受け継いだ古いしきたりを元に、送る日々の生活は読んでいて心地良い。それは著者の親や自然への深い敬意を感じるから。手間をかけて質素に見えても良い食べ物をとる。耳が痛い。

『メットガラ ドレスをまとった美術館』見る。メトロポリタン美術館で年に一度開催されるファッションイベントを追ったドキュメンタリー。作り手のラガー・フェルドがファッションはアートじゃないと言ってるのに、周りのキュレーターやらがしきりにファッションはアートだって主張するのがうわーって思っていた。でも、映画自体は豪華な顔ぶれに衣装、中国をテーマにするからウォン・カーウァイに依頼等見どころ多数だし、ごちゃごちゃ考えずに見ると、楽しい。

シェリーのブラックリーフトゥリーの食器がとても欲しい。価格は二万ちょいなので買えないことはないのだが……他に買いたいものあり過ぎる。ふと、何でこのデザインが好きなんだろうと思ったら、チェルシーの黒地にカラフルな色使いも好きだと気づいた。上品なレトロモダンな雰囲気が素敵だ。

チャールズ・シミック詩集『世界は終わらない』読む。シニカルでユーモラスな老人の戯言のような、賢しげで夢想好きな少年のような語り口。神話も著名な作品も戦争も汚い景色も、ふっと顔を出す。作者の夢や悪夢や白昼夢のコラージュが、うっすらと短編小説のような輪郭を与えるようで、面白い

大村しげ『京暮し』読む。著者の京都での日々の暮らしを綴った、暮しの手帖の連載をまとめた一冊。京ことばの語り口とオノマトペの多い文章は食べ物がとても美味しそう。

聖護院かぶらは、たたくとポカポカという音がして、包丁をいれるとピシッと割れるくらい肉がしまっている。」

ダーティペアのオープニング。
名前しか知らずにたまたま見たけど、めっちゃ動くしセンス良くてかっこいいな! この頃の昔のアニメの雰囲気めっちゃ好き。黒地にカラフルなモダンイラストのアニメ版というか、くすんだパステルカラーと背景やモブ塗りつぶす感じの好き

コーネル・キャパ写真集『われらの時代』読む。有名な兄のロバート・キャパの弟。兄の他の写真家へのアドバイス「相手に好意を持て、そのことを相手に分からせよ」という精神を、弟の写真を見ると感じる。様々な国や立場の人々の生き様、息づかいを感じられる写真集。

藤異秀明『武狂争覇』読む。めっちゃ面白い。超ハード(ボイルド)少年漫画。アメコミのような迫力のある構図と、SDキャラのようなキュートさを兼ね備えた血みどろバトル出血大サービス! 一気に読めちゃうスピード感は、昔デビチル漫画よんだことを思い出した

 漫画版のデビチルのハードな展開はとても好きだったから、それがリニューアルして帰ってきたみたいでわくわくした。久しぶりに少年漫画(?)読んでわくわくした。本当は読みたい本沢山あるけどさ、巻数が出まくってるとね、気軽に手が出せないのだ。

 人生は続いてしまう。幻想の馬を輝かせるために、馬にけだものに会いに行きたいし、いかなくっちゃな。

だって、感受性全開

結構疲れている。疲れているということを認識して、回復しなければ、と思う位には元気になってきたのかもしれない。

 小説を書かなければと毎日思っているのに、できていない。しかも、小説を書こうって思っている時は、他人の小説が読めないのだ。他人の創作物を読むというのは、その位力がいる作業なのかもしれない。

 それでも、何も目標がないよりかはましだ。目標、手に入る、手が届くものといえば、最近植物を育ててみたいと思っていて、ズボラな俺でも育てられそうなのを探すとミントが良さそうだと思った。俺はチョコミントは好きではないが、ミントの香りは好きだ。

 でも、鉢を植え替える? 土を買う? というのがどうもわからない。店で聞いて買えよ、って話だが。

 最近結構やばい位お菓子を食べている。ストレスや疲れているとお菓子食べまくってしまうのだが、結構まずい。体調的にも金銭的にも。急に止めると反動が来るから、徐々に減らしていけたら。ガンガン食べてガンガン動いて夜は寝る、なんてのが理想だけど、実際はガンガン食べてもガンガン動いたり寝たりはしていない。

雑記。

映画『ティモシー・リアリー博士の生涯』見る。LSDで内なる意識に目覚め、自由を得ることを主張した博士のドキュメンタリー。大学の頃本を読んだ。内容は忘れた。ス⚪リチュアルではないから、博士の主張は荒唐無稽ではない。正しさや快楽のムーブメントが生まれては消えるのを見ると、歴史を思う

三好一『モダン絵封筒の世界』読む。メールはないし、電話も気軽にかけるものではない時代、文通は人々にとって一般的な手段だった。ロマンチックな絵葉書や封筒は、送る方も貰う方も楽しいものではなかっただろうか。だれかに文章を送る機会には、素敵な柄を贈りたいと思える一冊。

ドキュメンタリー映画マティスピカソ 二人の芸術家の対話』見る。二人の交流や作品を、近しい人達の証言と共に辿る、正統派ドキュメンタリー。二人の熱心なファンではないのだが、生涯作品を作り続けた芸術家の生き様は見応えがある。好きなことを続ける人は困難だが、とてもかっこいいのだ。

藤異秀明20年記念原画展が大阪でやるって。関西の人が羨ましいデビチルの漫画大好き。
おおかみさんのコピー、

永遠の小学生の皆様!

って素敵だ。キュートも狂気もある漫画、血みどろもサービス!

 デビチルの無印のゲームや漫画好き。アトラス、メガテンらしいダークな展開と子供向けのキュートなの、どちらもあったから。原画展行きたいけど、さすがに関西は無理だなあ。

 でも、ふと思ったのは、好きな人の作品を「生」で見ると、時折、本当に満たされた気持ちになるってことだ。美術館に行った時に、たまにこの幸福な現象に出会うことがある。

 たまに、もう駄目だって思う。でも、それを先延ばしにしてくれるのは誰かの、誰かの作品との出会いしかないのだ多分。

『東京モダン建築さんぽ』読む。モダン建築の見どころを、見たこともない形、素材そのものを生かす、パターンの繰り返し、人の動きを考えられた空間性(凝った手すり)といったキーワードで説明。建築に明るくない自分でも分かりやすく、建物の魅力に気づく。たまに目にしていた景色の新たな顔を知るのだ

 正直、建築の良さについて、俺はよく分かっていない点が多い。好き嫌いはあるが、具体的に言葉で語れない。でもこの本を読んで、好きになる見方が広がった気がした。特に空間性、人がゆったりと感じられる身体性ということを考えて建築を見てこなかったから、これからはその点も感じられたらと思った。街のいつもの空間が少し変わるんだ。素敵なことだ。

ツイッターの動画で、燃えるような赤毛の狐を見た。とてもかわいい。欲しい。似たような体格の、犬猫狐、全て歩き方が違うしみんなかわいい。毛皮を着た動物はどれもこれも好きだ。今日フィナンシェを食べたら美味しかったから、毎日狐にフィナンシェを作ってもらいたい

いしいしんじ『きんじょ』読む。三人家族の日常エッセイ。これがとても面白い。大人の作者も、小学校にあがる息子も好奇心旺盛、毎日のように、はじめて、に出会う。様々な登場人物も魅力的で、これは作者の瞳を通した風景や人物に呼応しているようだ。きんじょ、でも大人でも子供でもワクワクできる。

『世界のかわいい小鳥』読む。普段肉眼では、はっきりと見られない小鳥の姿が見られる。美しいカラフルな姿を見ると、生きるには目立たない方が良いような気がするが、見る方は有難い。たまたまだが、四枚の写真似たような構図の白と青。ぱっ目についたので自分の好みが分かるなー。

 いしいしんじの小説は、少し合わないかもしれない。でも、彼のエッセイは好きでたまに読む。中でもこの本はとても良かった。ああ、彼は、彼の家族や「きんじょ」の人達は世界に自分たちが開かれていて繋がっているんだなって感じられた。素敵なことだ。だって、感受性全開だ。

 だから、俺は彼の小説を読む気になれないのかもしれない。だって俺の好きな小説や俺が書いている小説は、エンタメ性物語性がある(と思っているし、すぐれた作品は大抵そうだ)けれども、狭い世界の出来事への逃避や憧れやオブセッションから生まれている物が多い気がする。世界と友達になれていない人間の小説。

 楽しそうな人達を見て、ああ、俺とは違うのだと感じることがある。卑屈や皮肉ではなく、生き方の問題だ。人生の色んなことよりも、神の存在や塵芥タトゥー宝石まがい物、好きなんだ大切なんだだから、生活はうまくはく行かないんだ。

 でも、楽しそうにしなかったら、つまんない。俺はいろんな人たちの様には生きられなかったけれども、忙しさや不安で楽しみが霞まないように。なんどでも思う。

 感受性が遊べるように。それを思っていたら、案外うまくいくんだって祈って思って。