地獄の入り口ダンス
今の俺の人生は死んでるのと同じでは?と思い、酒と薬を追加して、借りた金をギャンブルにつっこもうとネットで色々検索しまくってたら、数時間寝ていて起きた。吐き気がする。汚泥に咲くのが睡蓮だとして、俺は花々の幻覚を見ながら終わるのか。新しい幻覚を作る事もなく、死んだまま腐敗していくのかな。
止めたい、とか思いながらもスマホで出来るのだから、ギャンブルは続けていた。恐らく毎日やっていた。今もだ。
でも、そんな資金もない。クレカの支払いは膨れ上がる。その上職探しも上手くいっておらず、収入面が厳しいのに、止められない。
救いも楽しみもギャンブルしかないから。
その日、というか数日で十数万負けて、もうやけになってプレイしていたら、妙に勝ちが続いた。でも、その勝ったのも賭けてしまうのがいつものパターンで、それなりにまとまった勝ちがあっても、それをかけ続けているといずれは負ける。
そんな当たり前のことが分からない。分からないというか、かけ続けてないと不安で仕方がない。気づけばスマホで入金。最近は一日の食費は300円にしているのに、数万円を気軽に入金。
そんな愚かな生活。
その日、負けが続いて、いつもと同じ物をプレイしていたのに、勝つ。ずっと勝ち続ける。途中で冷静になることがしばしばあった。降りることができないから、俺は負債を膨らませていた。
でも止まらない。止められない。スマホの画面を見続ける、かけ続ける。
結果、一日で数十万勝ちが残った。トータルではまだ負けだが、自分としてはかなりの金額を得て、少し現実味がない。やっすい俺の給料数ヶ月分かな? それを一日で稼いだ(とか言いながらその日だけで7万近く入金して溶かしてるけれど)
これでとりあえず、年末年始以降も生活費は大丈夫だろう。そう思ったら気が抜けた。今も面接の結果待ちだし、未来が明るくないのは同じだが、あまりにも視野狭窄過ぎた沼からは抜けられたような気がする。
毎日スマホギャンブル、クリニックのお薬、寝る。元気なふりをして、どうにか面接をしても受からない。もう、駄目かもしれないと思った。
最悪の生活。俺よりもずっと負債を抱えていたりする人らは沢山いる。色んな人のを見た。彼らがツイッターやらブログやらを更新したり、普通のつぶやきや日記を書けているのが不思議だった。俺は無気力で、しかし生活費をどうにか稼ごうと自分なりに必死になっていた。動ける時は日雇いもしていた。
今、多少精神が安定している時に、俺にはもう欲しいものがないのかな。そう思ってしまった。
何年も大切にしていた物を売り払ってしまった。お金の為。数万円にはなったけれど、それらはすぐに消えた。
欲しい物は沢山あるけれど、ギャンブル生活以前から躁鬱でメンタルの波が激しく、仕事を転々としているから、不安で中々買えなかった。大好きなものも、どうせ売り払ってしまうのだ。
欲しいものがない、やりたいことも今はやる気が起きない、かといって働く気もない。無気力なのか鬱なのか。
そんな曖昧な感情を抱えたまま日々を溶かして金を溶かしている。でも、最近少しずつ本を読めるようになってきた。ずっと本が読めなかった。ずっと、スマホでギャンブルをすることしか頭になかった。
俺は数か月前までギャンブルをほぼしなかった。誘われて少し。たまーに一、二万とか数千円すって落ち込む。二度とやりたくないと思う。そんな人生。
だけれど、もう変わってしまったのだ。今は勝ったからいいけれど、俺は多分またギャンブルをするだろう。
ただ、本を読めない位の愚かな状態にはもうなりたくない。本を読む/書くことだけが、俺に残された楽しみであり続けていることだから。
この愚かな体験、中毒状態、依存状態も何かの創作の餌になるのかな。書かなくっちゃな。読まなくっちゃな。それには生活を安定させなくっちゃな。
ここ数ヶ月毎日ギャンブルをしていて、その地獄の入り口でおかしくなっていた。入り口でだ。もっと深みにはまっている人は山ほどいるだろう。
入口で希望と絶望のシーソーゲーム(笑)に苦しんでいた自分は、同時に熱狂もしていた。
空虚な俺の隙間を埋めてくれたのは、大当たり(後で消える)と金を溶かすことだった。
雑記
連絡をもらえるはずの所が二つとも音沙汰なし。ふてくされて、一日中バッハを聴きながらギャンブル。我ながらまともとは思えない。マルク・コッペイというチェリストを初めて知ったがとても良い。金を溶かしながら聴くバッハは脳味噌を愛撫する。人間に戻りたいのにな
サルトル『戯曲 悪魔と神』読む。めっちゃくちゃ面白い。善も悪も、証明はおろか貫くのは極めて困難だ。犯罪、信仰、愛、戦争。人間の愚かさと嘆きを饒舌に語らせたら、サルトルは本当に上手い。悪魔も神もいないけれど、デーモニッシュで崇高な人間はいる。少なくとも本の中には!!!
サルトルは評論や哲学はさっぱりだったり嫌いだったりするけれど、小説や戯曲の言い回しが本当にすごいと思う。生きた人間の言葉だ。犯罪者や聖人や聖人ぶった俗物の言葉や言動がものすごくうまい。彼の描いた物語や人物を見ていると、とても心地よい。ギャンブルでは得られない刺激がここにはある。もっとも、ギャンブルでも小説では得られない刺激はあるけれど。
麒麟が欲しいなーって思ってたら、焼身自殺をするひとの映像が頭に浮かぶ。『裁かるるジャンヌ』モノクロの、無声映画。声を奪われ、白い炎に焼かれるジャンヌ。それを見て涙するアンナ・カリーナ『女と男のいる舗道』辛くて美しい。モノクロの映画って何でこんなにわくわくするんだろう。
ゴダールは初期のカリーナとのモノクロの映画が特に好きだけど、後年の映画におけるカラーの自然の美しさも素晴らしい。中平卓馬との近しさを浅田彰が指摘していたけど、政治的試みと敗北や作風の変化、ひっくるめて全部凄いってまじやべーな。凄い人間は他者に生きる力くれるなんちゃって
根津美術館『鈴木其一 夏秋渓流図屏風』見に行く。装飾的でありながらも、描写の巧みさは見事。白百合と落ちゆく赤い葉の対比が楽しい。そして円山応挙の没年の作品『保津川図屏風』がはんぱなく良すぎた。うねる濁流は同時に絹のようにしなやかで量感がある。岩のごつごつとした質感
と大胆な構図や省略。何度も作品の前を行ったり来たりしたけれど、どこを見てもすごい。写実の力を下敷きに、現実以上の自然の光景がそこにはあった。水と木と岩が生々しいのだ。生きている。素晴らしい。本ではなく屏風の本物を見られて良かった。
根津美術館に行くのは久しぶりだ。チケット屋さんに出回らないから定価の1500円を払わないといけないから。数万円とかしているのに、1500円を惜しみ悩む愚かな俺。
それに精神的に負けが続いてまいっていたので、美術なんてどうでもいいやみたくないやって思っていた。でも、鈴木其一は琳派で一番位好きなので行った。
朝顔の画が好きだから、それは無いし点数が少ないから不満もあったが、やはり本物の屏風を見られてよかった。
何より、円山応挙がすごすぎた。三十過ぎてやっと、雪舟と円山応挙のすごさに気付いた。本、印刷では絶対に表現しきれない実物のすごさ。日本画は特にそれが顕著だと思う。
俺はいつも金欠なので千円二千円を惜しんでいたけれど、円山応挙は見られる物は見に行きたい。写生の凄さを語られる彼だが、それを越えて本物以上の迫力がそこにはあった。すごい人の作品に感動できるなら、まだやっていけるような気がした。
その気分もすぐに変わるけれど、でも、今は眼を向けられているってことにしておいて
わるいともだち
夜以外は嫌いだ。普通の人らが働いている時間だから。一応面接を受けたり仕事を探しているが、元より勤労意欲も生きる意欲もないのだから、空疎と諦念の間を行き来する。金の心配を毎日しながら寝てばかりの生活。
錠剤を水、時々アルコールで流し込み、スマホでギャンブル。大抵負けるし、買っても止められない。常に残高をスマホでチェックする。愚か者の確認行動もギャンブルも止められない。
もう駄目だよ流石に立ち直らなくっちゃ、ってさ、こんな生活を続けていたのを終いにしようとしても、すぐには断ち切れない。借りた金をスマートフォンで気軽に賭けて、溶かすのは屑の快楽。お金が欲しいんじゃない、死ぬ理由が欲しいんだ、
なんつって、たまに日雇い仕事にもでるし、売れそうなものを売り払い、とりあえず今月の支払いを工面する。たまには死にたいって思うしたまには生きたいなって思うよ。
その日は現場が原宿でお洒落な人が沢山いた。普段は見ないようにしていたけどさ、やっぱり着飾って金かけてる人、洋服が大好きだって分かる人らを見ると少し幸福な気持ちになる。俺も昔は服が大好きだった。今ももしかして。
少しだけ、借りた本や溜まってた本を片付けることができるようになっていた。本を読むのってエネルギーがいるし、何より余裕がないと無理だ。俺はずっと、十数年も一人で読んだ本の感想を長々と書いていたが(特に二十代の頃)ある時、そういうのをする気が無くなった。他人の作品に費やす時間も大切で楽しくって豊かな物だが、自分のを書かなきゃって。他人の書評批評感想を沢山書き続けて、自作の小説を書くと言うのは難しいことだ。気軽なのだったらできるかもしれないけどさ、どっりもやるのはね。無償でね。十数年独り言を続けていると、ふと、終わりにしたくもなる。
新しい小説を書こうと思っていたが、今の状況ではとても無理そうだ。薬の量も増えたし、頭がうまく働かないし、何より金を稼がねばならない。お金。死ねばいいのに。お金を殺して燃やして、金銭を虐殺して生きる仕事、ネットで募集していないのかな。
数年ぶりに、かなり昔に登録した日雇いで日銭稼ぎ。知っているメンツがいて、あー懐かしいなって、そんなに親しくはないけれど皆がんばってんだなーって少し卑屈になっちゃって、でも明るく振舞っていると、一人の友人だった男と再会した。多分、3,4年ぶりくらいだった。
彼は、長身の俺と同じ位の背の高さでおまけにガタイが良く喧嘩も強く、物凄くお調子者で、お茶目で雑でポジティブで、人の痛みが分からない男だった。
多くの人は馬鹿だなあと思うだろうが、昔は悪かったんだよねーとか自慢をする男と言うのは俺のいるような環境にはそれなりにいて、俺も馬鹿だなー
やってもいいけど(よくねえよ)言わなきゃいいのになーって思ってしまうのだが、その中の一部の人には親近感のようなワルガキに対する好意のような物を抱いてしまうこともある。
日雇いで出会ったその彼は、ガチの人で、あまり多くを言うのは良くないので控える。しかしそいつは「虎彦(仮名)パイセンむしろどんどん書いちゃって下さいよ」とか言ってしまうような奴だ。前向きなドエム、いや、恥という概念が彼には欠けていた。不利なのは嫌だけど、勝つのも恥部を見せるのも大好き、自分大好きの男。
もめごと大好き。お金女大好き。良心の呵責や常識が全くない。でも、世渡り上手で、結構友達思い(のように見える)。
仕事で知り合った人と、遊びに行くことなんてほぼないのだが、彼とは何度かご飯を食べたり服を買いに行ったりした。俺は本が大好きで彼に「読みやすい本」をあげたが、多分一冊も読んでないだろう。
本なんて読んでいるときちがいになる。たぶんきっと。
金と性欲と快楽の為に頑張って仕事をしたりしなかったり。それが生活の知恵というか、人生を生きる上で必要な一面なのかもしれない。
でも俺は働きたくないし、働くときちがいポイントが俺の身体にたまってくるし。一人でずっと本を読んでいてもきちがいポイントはたまるし。
逃れられない気が狂う恐怖。
こんな極端な思考をしている勤労意欲のない人間だからか、大抵の友人とは関係が続かない。ちょっとしたことで、俺がぶちぎれるか、相手が俺のヤバさに引いておわる。
俺はただ、神様の赦しについてとかユニコーンや麒麟や天使性や宝石や悪人やデーモン、本物のぞっとするような憎みや恐怖や豊かさや芸術について語りたいだけなのに。紅茶を飲んで音楽を聞いて、誰かの瞳の中のデーモンについて語りたいだけなのに。
彼とは小さないざこざがあって、俺がスマホの機種編で全部データを消したから、それ以来だった。俺の中では、彼は昔仲良かった人になっていた。
でも出会った彼は、持ち前の空気の読めなさとスーパーポジティブさでぐいぐい俺に話しかけてきて、俺も適当に話を合わせていて、彼は会話をしていてすぐに実は、と新しい犯罪の告白をしてきた。結構な大事というか、俺なら一生誰にも話さないようなことだが、彼にとってはそれも話のタネなのだ。恥知らず。痛み知らず。
俺は自らの恥と痛みを意識しすぎる人生だよ。
マジばかだなーどうしようもねえなあって思いながら、でも、久しぶりに話していると数年前の時とお互い何も変わってなくって、わだかまりもなくって、悪ふざけばかりしながら仕事をしていた
俺は何曲か歌を歌いながら仕事をしていて、彼がヤバイ自分の近況を話し出したから、俺はもののけ姫のサビを歌って、彼は爆笑していた。仕事中に歌を歌うっていう時点でかなりきているが、彼が楽しそうだからそれでよかった(よくねえよ)
夜遅くに仕事が終わって久しぶりに会った人らとコンビニで酒を買って地べたで飲んだ。あーこの感じ懐かしいなって思った。久しぶりに会う人、もう二度と会わないかもしれない人。好きでも嫌いでもない人、お世話になった人、過去にぶちぎれた人。色々いて、俺は割と気分屋で愛情深くて狡い人間なので(自分でこういうことを書ける卑しさ)、色んな人と楽しく話していた。
楽しかったっすよねーそういうとこ好きっすいやーまじ会えて良かった、みたいに幾らでも素直に言葉が出てきていて、俺は嘘をついていないが、屑だと思う。
でも、その場で誰かが喜んでいたなら、その時だけでも嘘をついていないなら、それでいいんだって思っている。
彼は色々悪いことやとても下品なことやずるいことをしながらも楽しそうに生活をしていた。良心や自罰がないからか、彼はいつでも楽しそうだ。ノリが良いバカという点を除けば、俺とは真逆かもしれない。
あ、違った。一つ大きな共通点があった。彼も俺もヒリヒリしてないと生きていてつまんねえなって思う所。俺は、まあ、色々体験もあるけれど、作品に触れて作品の中でそれを作り出そうとする。デーモンにもし会えるとしても、作品の中でね。
彼は自らトラブルに飛び込んで、痛い目を見たりしながらも、悪いことや楽しいことを自分の身体で受け止めようとしている。
色々話してかなり盛り上がって、でも終電があるから解散。俺以外はほとんどみんな仕事があるし。日雇いだって仕事は探せばあるけれど、そんな働くなんてきちがいみたいだろ。俺はしたくないし
別れ際、彼に「俺は色んな夢を持っているひとの真剣さとかきらきらした言葉や表情が好きでさ、それとさ、罪を語る人間のギラギラした愚かな輝きがヒリヒリして好きなんだ」というようなことを伝えた。
彼は本を全く読まないからこういう例えとか通じるのかなって思ったけれど(彼に限らず本を読まない人は長話やたとえ話をとても嫌う、あ、俺の話がくどくって駄目なだけか)、彼はニヤニヤして「やっぱ虎彦(仮名)パイセンといると最高っすわ!」って返してきて、俺も猫の笑みを返す。
彼とラインを交換した。俺はギャンブルで数十万負けてるから奢れよって言っていて、今度彼に奢ってもらう予定だ。
君も俺に奢って。それか、直接会ってニヤニヤしながらヘドロの輝きで自慢をしてくれよ。
賭けに負けたんだ
ここ一か月、ギャンブルに狂っていた
三十数年生きてきて、ギャンブルはほぼしなかった。だけど、ストレスの爆発と、躁状態と、小説を書き終えたタイミングが重なり、最悪の結果を生んでしまった。
今月で仕事が終わるのに、その給料を含めて、貯金以上の金を溶かした。数十万溶かした。毎日ギャンブルのことばかり考えていて、多少勝った時もあった。なのに、その金も全て賭けた。とにかくずっとお金をかけていたかった。
素人だから下りどころが分からないということもあるだろうが、もう、嫌になった。破滅して見たかった。それか、ほんの少しだけ、お金の心配をしない生活をしてみたかった。
結果、借金をすることになった。一応これまでの生活で、ぎりぎりで借金はしてなかったのに、一線を越えてしまった。
その金でギャンブルをしたい欲望もある。だが、俺は何の為にこの惨めな生活を続けているのだろう?
俺は小説を書いている。誰も読まないような、純文学の小説。読みにくくってエゴイスティックで、俺は、好きな小説。
誰にも読まれない、お金にならない小説。
賞に応募しても通らない。というか、俺はその雑誌を読んでいない。古い人の文章が好きだから(今の小説家が劣っているとかいいたいわけではなくて、現代の小説家でも好きだなあうまいなあって人はいるけど、昔の小説家の方が超好きすぎるんだ)
賞に応募する小説は、一般公開してはいけない、未発表の物に限るらしい。それに、わざわざ俺の小説をお金を出してまで読もうとする人はいないだろう。
ずっと、孤独で、それはニッチな物を偏愛する人間だから仕方がないことだと思っていた。色んなことがあっても、どうにか誤魔化し目隠し、やりすごしていた。
でも、もう限界だ。借金をして生活費を工面する。仕事もない。展望もない。美術は好きだし、書きたい主題はある。でも、生活とお金の不安で何もできずにいる。帰宅して、家でずっと動画を流しながら寝ているだけ。
惨めな人生。
何作か、手ごたえがある物が書けた。でも、お金にもならないし賞もとらなかった。二十代はそれでもよかった。俺が自分の作品を好きでいられることが一番大切だから。かき続けることが一番大切だから。
でも、もう疲れた。俺は賭けに負けた。数十万の損失で終わる人生、滑稽だ。希死念慮を薬で抑え、仕事を探している。もし、仕事が決まっても、続けられるメンタルかは分からない。
最近はずっと、叫び出したくって泣きたくって仕方がない。叫ぶのは一応抑えているが、涙はボロボロでる。
でも、無様に生き延びている。哀しい。いつ、俺は安らかに死ぬのかな。
余生の終わり
小説を書き終えて、文学賞への応募を完了した。少しだけ気が楽になると共に、自分にこの先がもうないような気もしてくる。二十代はなんだかんだで乗り切れたことも、三十代後半になってくるときつくなってくる。
今回のギャンブルで多額のお金を溶かしてしまったのは完全に自分の責任だ。買うか悩んでいた、お絵かき用のタブレットは当分買うことはできないだろう。
本当に愚かなのだが、今もギャンブルがしたい。お金を取り戻したい。生活の不安を少しでも減らしたい。だが、それが負債を増やすだけなんて馬鹿でも分かる。
だけれど、馬鹿なんだ。本当に底の底までいかないと、理解できないんだろう。今は踏みとどまれているが、借金ギャンブル生活が眼前でぼやけて見えている。
というか、数十万程度で自分の人生が狂うと考えると情けなくも馬鹿らしい。そんな金で人生終わらせようと思うなんて。
自分としては、十数年もの様々なことが重なって、精神的にまいっているのを自覚した。色々あってもなんだかんだで立ち上がってきたけれど、さすがにきつくなってきた。
書きたい小説の構想はある。でも、何度書いても誰にも求められず、その他の生活も上手くいかないのなら、もう生活も終わりにしたい欲望が目の前をちらついている。
俺は薬を飲んでようやく仕事に行けたり行けなかったりする人間だから、お金が無いから沢山頑張って働くというのが難しい。無理をしてそのぶり返しも怖いし、今の自分の精神状態がいつもよりもずっと不安定なことを自覚している。
頭がおかしくなるのが怖い。自分が自分でなくなって、他人に迷惑をかけたりひたすら寝るだけの生活。過去にそういった期間があって、その無駄な時間を今も悔いているし、そこから立ち直った自分の人生は余生だって思ったこともある。
余生の終わりを考えると、怖くなる。何とかして立ち直ろうとしてはいるが、それと同じ位、もう破滅して自殺したい気持ちを処方箋で抑え込んでいる。
それに、もう、躁鬱の薬を十数年も飲み続けるのも嫌になった。十数年躁鬱の薬を飲んで、小説を書いて、得られたものは?
俺は自分の書いた小説が好きだ。様々な人の作品に触れ、歳をとってようやく理解できたことや、その美しさをより深く感じられるようになったこともある。歳をとるのも悪いことばかりではない。
でも、それ以外はボロボロだ。素晴らしいこと楽しいことも結構あったし、自分の小説(作った物)が好きだと言えるのは誇れることかもしれない。
ただ、それ以外の不安憎しみ悲しみ虚無、そういった物の方がずっと多きかった。美術やら処方箋やらが一時の鎮痛剤で、そういうのを誤魔化して生きてきて、限界がきたのだろうか。
限界を感じたきっかけがギャンブルで大負けしたというのは、自分でも笑えてくる。お金。芸術や親しい人や自然等ではなく、お金のことばかり考え悩む人生。
いつも、一応前向きなふりをしているのだが、今回は分からない。疲れた。疲れたんだ。
中年男性はプロメテウスがお好き
色々とあり体調を崩す。それでも生活の為に日銭稼ぎ。頭の中にはいつも完成させていない小説のことがあり、神経が休まらない。
いつまでこんな生活を続けるのか。まだやれるようなもうそろそろ終いにしたい、なんてことを考えながらもすり減らす日々。
過日、やっと小説を書き終えた。まだ推敲や直しが多々あるにせよ、一応はラストまでこぎつけて、ほっとした。あと何本小説を書けるんだろうって、そんなことを考えるようになってしまった。現実を、幻想で幻覚で目隠し。こんな生活に嫌気がさしているけれど、俺を救うのはきっと幻想。誰かの幻想。或いは、お手製の幻想。真実に眼を向けたら狂ってしまう。それよりかは内なる虎や一角獣の肌を牙を思う方がまだ健康的だ。
雑記
小説を書くことができていて、本も読めている。やりたいことは沢山あるのだが、詰め込み過ぎて、疲れて寝てしまう。小説を書いたり、他人の作品に入り込むと、とても満たされたような気持ちになる反面、人とあったり労働するのがとても恐くなる。労働しても正気って、不条理小説みたいで奇妙で恐ろしい
アルフレッド・ド・ミュッセ『ガミアニ』読む。謎に包まれた妖艶な伯爵夫人は、令嬢を寝室に誘う。そこには既に夫人に惹かれた青年がいた。軽妙洒脱な戯曲とは異なり、スキャンダラスな性愛小説。刺激の多い現代人が見るとやや退屈かも。それでも、最後まで読ませる筆力は見事。
金子信久『江戸かわいい動物』読む。権力や宗教のためではなく、江戸時代では人々の楽しむ為の絵画も花開いていた。空想やデフォルメ、或いはリアルな動物の姿。とてもかわいい。それは、画家の動物への温かい眼差しによるものだろう。好きな物を自分の美意識で真剣に描く。愛のある物はカワイイ。
解説・監修 海野弘『日本の装飾と文様』読む。彼の監修したシリーズの本は大好きで十冊以上持っている。のだが、この本はどうだろうか。範囲が縄文から江戸としているせいか、広く浅く。とてもハイセンスな学校の教科書というか、有名な物を集めたカタログのような。見て楽しいが、驚きは少ない
渋谷の本屋で本棚を見ていたら、隣に歩いて来た女性二人が会話をしていた。
「ねえ、今度ザリガニ釣りに行かない?」
「えー。男釣るなら行きたーい」
渋谷は今日も平和です。皆さんは何を釣りたいですか?
俺はファミコンのソフトを釣りたいです。
昔DSのでコンタクトというゲームがあった。色々できるアクションロールプレイングゲームで、釣りをするコマンドがあり、バスタブに釣り糸を垂らすとファミコンのソフトみたいなのが釣れて、ドキドキした。
沖縄にファミコンを釣りに行きたいな。
宗教に関する本を読むと、救い、帰依する人の救われたいという心情等が出てきて、毎回引っかかる。俺は神様がいて欲しいし(信じてないが)宗教美術とか好きだが、救われたくない。というか、何で神様が人を救うのか理解できない。
人を救わない、人間に有用ではない神様や悪魔や天使のことを考えると、気分が軽くなる。ゲームのバグのような、天災のような、無慈悲すら与えてくれない、残酷な知覚の外部について思いを馳せ、憧憬の火が灯ると、怠惰な俺の身体に血液が循環する。悪魔や天使や神様、人間のことを愛さない彼らのことを思うと健康になると思う。トマトジュース飲んで彼らを思い健康に
『「琳派」の迫力と美しさ宗達と光琳』読む。子供向けの本だけど、大人が読んでも楽しめる。俵屋宗達の生没年不明➡古い時代の有名な画家の記録は貴族や寺のために仕事をした人のが主。琳派の繰り返すモチーフや真似る実物の説明、実物大の絵画の画像等琳派の魅力を分かりやすく伝えている一冊。
蓮實重彦『光をめぐって 映画インタヴュー集』また読む。ゴダールとビクトル・エリセとの対話が特に好きで、(ゴダールとの対話でも上映時間についての言及がある)蓮實がエリセに貴方の映画は二本とも一時間半で、いま一時間半の映画を撮れるのは貴方とゴダールだけ、と発言していて、とても好き
ゴダールの全方位悪罵が気持ちいいのは、的確である(ように感じられる)こともそうだが、彼自身が文化を映画を愛し闘っているから。蓮實に『パッション』の映画監督は光が撮れないと悩むが、あの映画の光は素晴らしいと言われ、カメラのラウル・クタールの照明が見事だから残すというやりとり好き。
ローベルト・ヴァルザー『ヴァルザーの詩と小品』読む。スーザン・ソンタグの「散文によるパウル・クレーだ」という文に惹かれて読んでみると、確かに繊細で臆病で子供っぽさのある作品達。だが、読み進めると、作者の憂鬱、どこまでも忍び寄るオブセッションに、アンナ・カヴァンに近しい恐怖心
があるようで、彼女よりはユーモラスな作品なのだが、解説で精神不安で嘲笑の声が聞こえたり自殺未遂したりして療養、という文を目にして落ち込む。茶目っ気があって臆病で素直な眼差し、子供のようにな感受性を持つ作品の魅力に通底する精神不安。アンナ・カヴァンもだけど元気な時に読むべき本かも
林綾野『画家の食卓』読む。画家が描いた、口にしたであろう料理(モチーフ)を再現。自分には無い視点で物を見ている。楽しい。宮廷肖像画家のリオタールの描いたチョコレートを運ぶ少女の絵に蜂蜜も砂糖も描かれてない、画家はストレートのままが好きでは?等細やかな視点が絵を見る時の魅力を増す
『別冊太陽 円山応挙』読む。画が上手いとか画力があるというのは、褒め言葉ではないこともある。しかし、応挙の日本画は、写生は、上手すぎる。物を捉える画力が実物以上の魅力を引き出していると言っても過言ではないはずだ。俺は大胆な画やデフォルメを好むけれど、応挙の画を見ると完成された構図
の素晴らしさに清冽な心持ちになる。無駄の無い絵。俺は写実や写生をわりと軽く見てしまう所があるのだが、彼の作品を見ると見たものをかくというシンプルな行為に思いを馳せる。応挙だって、実物を見ていない虎はデフォルメが大きく、見ていて楽しい。しかし、見たであろう動物の画が本物以上にすごい
菫のチップが入ったチョコレートを食べる。チョコレートはやや甘さ控えめでおいしい。菫の味や香りは弱い。食べ終わった後に口の中に僅かに残る。その主張の弱さも、菫らしいというか、菫のチョコレートと言うだけでかわいらしいというか、とにかく俺はかわいい物や菫に点が甘い。
図録『古径と土牛』読む。師弟関係(兄弟弟子)にあった二人の作品が収められている。日本画と西洋画のどちらの影響も受けた彼らの絵は、とても心地良い。真面目な、物を見て描く絵だ。この印刷では分からないかもしれないが、実物は古径はぽってりとした塗りの暖かさ、土牛は柔らかな線の魅力を感じた
https://youtu.be/AjlSyiCGm9k
心がやさぐれ、ミレニアムの素晴らしいアルバム聞いていて、there is nothing to sayが本当に素晴らし過ぎて震える。超好きなgreat3もカヴァーしていて、そちらもめちゃくちゃ良い。アキトの甘く優しく寂しげなヴォーカルがたまらない。良い曲は一瞬、世界を変える。
『ウィリアム・モリスのフラワーパターン ヴィクトリア&アルバート博物館コレクションを中心に』読む。手に取りやすいサイズの大きさだが、図版が大きくプリントされているから、モリスのデザインを見るのに丁度良い。植物の曲線と主張がありながらも調和した構図は、見飽きない魅力がある。
『浮世絵でめぐる江戸の花 見て楽しむ園芸文化』読む。浮世絵は江戸時代に花開いた町人の絵画の文化。また、江戸時代は植物栽培がとても盛んで人々の生活に根付いていた。歌舞伎も人気。浮世絵の中に描かれた花の説明や、当時の風習への丁寧な紹介が有難い。勉強になるし、浮世絵への理解が深まる。
人に渡そうかなと、相撲特集の芸術新潮を買い、中を見たら中平卓馬の名前があり、あ、渡せないやと思った。聞き手・文 大竹昭子とクレジットがされており、その文章は本で読んだはずなのだが、見たことがない写真が見られた。嬉しい。記憶を失った彼が撮った、息子の写真についての下りがとても良い。
『クリスチナ・ロセッティ詩抄』また読む。画家でラファエル前派の、兄ゲイブリエル・ロセッティのモデルにもなっている。彼女の詩は神や自然や思い人に捧げられたもので、その多くが哀しい色を帯びているようだ。しかし、品があり、強さを感じられるからか調べは美しく胸に迫る。野の花のような詩人
蓮實重彦 山根貞男編『成瀬巳喜男の世界へ』また読む。関係者へのインタビューや監督らのエッセイを集めた一冊。やっぱり蓮實の文書がとても良い。二間、狭い日本家屋や光について執拗に書いている。ある監督ならば、映画は男と女と光で作れてしまう。庶民的な、というより辛い立場に置かれた女性の生き様が描かれる成瀬巳喜男の映画。息苦しさや逃げ場がない(逃げ続ける)中でも、女性の強かであったり必死な姿を見ると、多少の痛ましさと共に美しさを感じてしまう。それは、作られたセットや光(そこからの脱出)によって作られている。陰影と明暗に注視して、また彼の映画を見たくなる。
『ジョン・エヴァレット・ミレイ ヴィクトリア朝 美の革新者』読む。ラファエル前派の作品だけではなく、アカデミーでも成功を収めた彼の様々な作品が収められている。大きな図版に加えて、一部分も大きく並べられてい為、筆致も感じられ見ごたえがある。可愛らしい子供の絵も多数あり楽しい。
フィリップ・ガレル『内なる傷痕』また見る。一時間という短さが良い。映画というより、ニコのMVでは?ともおもうけどそれでも良い。彼女の叫びや嘆きの様な歌声が痛ましくも心地良い。言葉はあっても一方通行で、入口も出口もないような風景が続くのも好きだ。広漠とした景色で見るものも迷子になる。
アンドルー・ラング『書斎』読む。19世紀の小説家であり詩人の著者による本への偏執的なこだわりを披露。とはいえ、読みやすい文で押し付けがましくなく品もある。美しい本を愛するのは訳者の生田耕作にも通じるか。俺は読めればいいけど、麗しき本の奴隷になれるのは、きっと紳士だけ。
渋谷Bunkamuraザ・ミュージアム『マン・レイと女性たち』見る。彼の作品はちょくちょく目にしているが、一度に彼だけの作品を見るのは初めて。惹かれた女性と新しい表現を続ける姿は知っている作品が多くても楽しめた。ランプシェード?をモチーフにしたイヤリングをしたドヌーヴ美人過ぎる!
ビクトル・エリセ監督『エル・スール』また見る。好きな映画なのに、何て感想を言ったら分からない。色んな美しさや微笑ましさがあるけれど、ずっと不安が物語を包んでいる。しかし、それに対峙する覚悟があるから、単にセンチメンタルな映画なんかではない。人の生活の楽しさや哀しさを思う。
宇山あゆみ『夢のこども洋品店 1960-1970年代の子供服アルバム』読む。題名の通りの本なのだが、見ていてとても幸福な気持ちになった。それは、我が子に素敵な洋服を着せようとする親の暖かさが伝わってくるからか。紹介されている洋服はどれも可愛らしくて品がある。小さい頃の記憶が蘇る一冊
いつものエレガントで使いにくいカップではなく、シンプルなノリタケのマグカップを買った。ノリタケは値段がお手頃価格なのに品があって使いやすそうなのが多くて有難い。マグカップ毎日使おうっと。
ゴダールの『イメージの本』また見る。88歳の映画監督がまだ新しい表現を探りつつ挑発的な映画を撮ってるってやっぱり凄い。様々な引用とコラージュ。必ずしも好みではないものもあるけど、音(無音)の使い方が一番上手い映画監督ではレベルで心地良いし、また見たくなる。
『ヘルダーリン詩集』また読む。現実の生活よりも自然や古代ギリシアの神々を見て讃えていた詩人。三十代で病気になり、後の人生を塔の中で過ごす。古き時代の、見えない神への愛が人を狂わせるのかと感傷的な思いがよぎるが、彼のロマンチックな詩は品があり美しく、それだけでいいのかなとも。
デパ地下で立派な桃買う。とても大きくて、いい匂い。
冷やして食べてみる。あ、まだ固いぞ。もっと熟してから食べれば良かったと思ったが、柔らかい部分はとても甘くて美味しかった。見た目が良い物を口にすると、ふんわかほわほわした気分になる(平和なべ)
花の本を読んでいて、ゲーテの菫の詩を思い出し、ふと、花の口づけというキャンディの味を思い出す。まろやかで甘酸っぱくて、何よりネーミングが良い。海外だとflower kiss candyとして売られているそうだ。とてもかわいい。
三井記念美術館、『自然が彩るかたちとこころ』日本画茶道具等見る。
特に二つの作品がめっちゃくちゃ良かった。本阿弥光悦 黒楽茶碗 銘雨雲。黒い茶碗に靄のような、雨雲のような模様が入っており、器の形も飲み口は薄く少し歪んでいるのに全体が調和していて品がありとても素晴らしかった。
中でも本当に凄かったのが円山応挙 雪松図屏風。印刷されたものではなく、対になった大きな屏風を見ると圧倒される。本当に新雪(描かず地の白で表現)が量感をもって迫ってくる。松の葉の広がる力強い表現。その上に白い雪が広がる姿はこの世の物とは思えない、円山応挙の卓越した『写生』の力を見る
日本画って印刷されたものではなく、実物を見なければなあと、素晴らしい作品に出会う度に思う。屛風絵、家に飾りたいが置けるスペースがない。金もない。
https://youtu.be/GbmsUw0-Ogw
いえにこもってバッハのハープの演奏で、不健康な人間が不健康な小説を書く。たまらずに外に出ると、雨の中でも民家のラベンダーの香りに出会う。気分が良くなり、歩きながらグールドのバッハのイタリア協奏曲3番聞く。脳を愛撫されるような幸福。家でも外でもバッハは万能薬
A・アルトー『タラウマラ』読む。メキシコのタラウマラ族との出会い。ペヨトル(薬物治療)/ダンスの儀式によって受ける啓示のテキスト。精神病院に何年もいた昔の芸術家が薬物と未開の地の儀式でラリった。って書くと安っぽくなるし、そういう見方も必用だと思うが、アルトーの思想への理解が低い俺
ではあるけど、彼のテキストは胸を打つ。それは本気であること、ポエティックな美しさとダイナミズムを感じるからだとおもう。本書でのキリスト教に関するアルトーの言及は、錯綜しているような。俺の理解が低いのか。143pの愛と神について語っている部分は美しい。神に近づこうとすると気が触れるのか
youtu.be/0sDleZkIK-w
バッハ関連のYouTube流しっぱにしていて、アンドラーシュ・シフの演奏が上品な優等生って感じでずっと聞いていられた。情緒不安定な小説制作のお供に、優雅だが控え目なピアノはとても助けになった。有難い。
城一夫『日本の色のルーツを探して』読む。色にまつわる文化や歴史を紹介。金色で琳派、婆娑羅という項目で傾く日本文化紹介楽しく読める。中でも中国の水墨画での技法、墨は薄めると「焦 濃 重 濃 淡 清」の5つの諧調を作り、この「墨の五彩」で有色に劣らない世界を表現する。ここ深く知りたい
おっさんになり、そろそろ身体と精神にガタがきているのを日に日に感じるようになってきた。芸術家が気がふれる、というエピソードを見る度に明日は我が身だと思う。それと同じ位、ヘンリー・ダーガーのように低賃金労働を続け、自閉的な作品で自分を慰め死ぬのかなとも思う。
でも、まだ作りたいものがあるから、それまで正気で。つーか、変換で最初に瘴気って出たんだ。おそろし。