地獄の入り口ダンス

今の俺の人生は死んでるのと同じでは?と思い、酒と薬を追加して、借りた金をギャンブルにつっこもうとネットで色々検索しまくってたら、数時間寝ていて起きた。吐き気がする。汚泥に咲くのが睡蓮だとして、俺は花々の幻覚を見ながら終わるのか。新しい幻覚を作る事もなく、死んだまま腐敗していくのかな。

止めたい、とか思いながらもスマホで出来るのだから、ギャンブルは続けていた。恐らく毎日やっていた。今もだ。

 でも、そんな資金もない。クレカの支払いは膨れ上がる。その上職探しも上手くいっておらず、収入面が厳しいのに、止められない。

 救いも楽しみもギャンブルしかないから。

 その日、というか数日で十数万負けて、もうやけになってプレイしていたら、妙に勝ちが続いた。でも、その勝ったのも賭けてしまうのがいつものパターンで、それなりにまとまった勝ちがあっても、それをかけ続けているといずれは負ける。

 そんな当たり前のことが分からない。分からないというか、かけ続けてないと不安で仕方がない。気づけばスマホで入金。最近は一日の食費は300円にしているのに、数万円を気軽に入金。

 そんな愚かな生活。

 その日、負けが続いて、いつもと同じ物をプレイしていたのに、勝つ。ずっと勝ち続ける。途中で冷静になることがしばしばあった。降りることができないから、俺は負債を膨らませていた。

 でも止まらない。止められない。スマホの画面を見続ける、かけ続ける。

 結果、一日で数十万勝ちが残った。トータルではまだ負けだが、自分としてはかなりの金額を得て、少し現実味がない。やっすい俺の給料数ヶ月分かな? それを一日で稼いだ(とか言いながらその日だけで7万近く入金して溶かしてるけれど)

 これでとりあえず、年末年始以降も生活費は大丈夫だろう。そう思ったら気が抜けた。今も面接の結果待ちだし、未来が明るくないのは同じだが、あまりにも視野狭窄過ぎた沼からは抜けられたような気がする。

 毎日スマホギャンブル、クリニックのお薬、寝る。元気なふりをして、どうにか面接をしても受からない。もう、駄目かもしれないと思った。

 最悪の生活。俺よりもずっと負債を抱えていたりする人らは沢山いる。色んな人のを見た。彼らがツイッターやらブログやらを更新したり、普通のつぶやきや日記を書けているのが不思議だった。俺は無気力で、しかし生活費をどうにか稼ごうと自分なりに必死になっていた。動ける時は日雇いもしていた。

 今、多少精神が安定している時に、俺にはもう欲しいものがないのかな。そう思ってしまった。

何年も大切にしていた物を売り払ってしまった。お金の為。数万円にはなったけれど、それらはすぐに消えた。

欲しい物は沢山あるけれど、ギャンブル生活以前から躁鬱でメンタルの波が激しく、仕事を転々としているから、不安で中々買えなかった。大好きなものも、どうせ売り払ってしまうのだ。

 欲しいものがない、やりたいことも今はやる気が起きない、かといって働く気もない。無気力なのか鬱なのか。

 そんな曖昧な感情を抱えたまま日々を溶かして金を溶かしている。でも、最近少しずつ本を読めるようになってきた。ずっと本が読めなかった。ずっと、スマホでギャンブルをすることしか頭になかった。

 俺は数か月前までギャンブルをほぼしなかった。誘われて少し。たまーに一、二万とか数千円すって落ち込む。二度とやりたくないと思う。そんな人生。

 だけれど、もう変わってしまったのだ。今は勝ったからいいけれど、俺は多分またギャンブルをするだろう。

 ただ、本を読めない位の愚かな状態にはもうなりたくない。本を読む/書くことだけが、俺に残された楽しみであり続けていることだから。

 この愚かな体験、中毒状態、依存状態も何かの創作の餌になるのかな。書かなくっちゃな。読まなくっちゃな。それには生活を安定させなくっちゃな。

 ここ数ヶ月毎日ギャンブルをしていて、その地獄の入り口でおかしくなっていた。入り口でだ。もっと深みにはまっている人は山ほどいるだろう。

 入口で希望と絶望のシーソーゲーム(笑)に苦しんでいた自分は、同時に熱狂もしていた。

空虚な俺の隙間を埋めてくれたのは、大当たり(後で消える)と金を溶かすことだった。

雑記

連絡をもらえるはずの所が二つとも音沙汰なし。ふてくされて、一日中バッハを聴きながらギャンブル。我ながらまともとは思えない。マルク・コッペイというチェリストを初めて知ったがとても良い。金を溶かしながら聴くバッハは脳味噌を愛撫する。人間に戻りたいのにな

 

 

サルトル『戯曲 悪魔と神』読む。めっちゃくちゃ面白い。善も悪も、証明はおろか貫くのは極めて困難だ。犯罪、信仰、愛、戦争。人間の愚かさと嘆きを饒舌に語らせたら、サルトルは本当に上手い。悪魔も神もいないけれど、デーモニッシュで崇高な人間はいる。少なくとも本の中には!!!

 サルトルは評論や哲学はさっぱりだったり嫌いだったりするけれど、小説や戯曲の言い回しが本当にすごいと思う。生きた人間の言葉だ。犯罪者や聖人や聖人ぶった俗物の言葉や言動がものすごくうまい。彼の描いた物語や人物を見ていると、とても心地よい。ギャンブルでは得られない刺激がここにはある。もっとも、ギャンブルでも小説では得られない刺激はあるけれど。

麒麟が欲しいなーって思ってたら、焼身自殺をするひとの映像が頭に浮かぶ。『裁かるるジャンヌ』モノクロの、無声映画。声を奪われ、白い炎に焼かれるジャンヌ。それを見て涙するアンナ・カリーナ女と男のいる舗道』辛くて美しい。モノクロの映画って何でこんなにわくわくするんだろう。

ゴダールは初期のカリーナとのモノクロの映画が特に好きだけど、後年の映画におけるカラーの自然の美しさも素晴らしい。中平卓馬との近しさを浅田彰が指摘していたけど、政治的試みと敗北や作風の変化、ひっくるめて全部凄いってまじやべーな。凄い人間は他者に生きる力くれるなんちゃって

根津美術館『鈴木其一 夏秋渓流図屏風』見に行く。装飾的でありながらも、描写の巧みさは見事。白百合と落ちゆく赤い葉の対比が楽しい。そして円山応挙の没年の作品『保津川図屏風』がはんぱなく良すぎた。うねる濁流は同時に絹のようにしなやかで量感がある。岩のごつごつとした質感

と大胆な構図や省略。何度も作品の前を行ったり来たりしたけれど、どこを見てもすごい。写実の力を下敷きに、現実以上の自然の光景がそこにはあった。水と木と岩が生々しいのだ。生きている。素晴らしい。本ではなく屏風の本物を見られて良かった。

 根津美術館に行くのは久しぶりだ。チケット屋さんに出回らないから定価の1500円を払わないといけないから。数万円とかしているのに、1500円を惜しみ悩む愚かな俺。

 それに精神的に負けが続いてまいっていたので、美術なんてどうでもいいやみたくないやって思っていた。でも、鈴木其一は琳派で一番位好きなので行った。

 朝顔の画が好きだから、それは無いし点数が少ないから不満もあったが、やはり本物の屏風を見られてよかった。

 何より、円山応挙がすごすぎた。三十過ぎてやっと、雪舟円山応挙のすごさに気付いた。本、印刷では絶対に表現しきれない実物のすごさ。日本画は特にそれが顕著だと思う。

 俺はいつも金欠なので千円二千円を惜しんでいたけれど、円山応挙は見られる物は見に行きたい。写生の凄さを語られる彼だが、それを越えて本物以上の迫力がそこにはあった。すごい人の作品に感動できるなら、まだやっていけるような気がした。

 その気分もすぐに変わるけれど、でも、今は眼を向けられているってことにしておいて

わるいともだち

夜以外は嫌いだ。普通の人らが働いている時間だから。一応面接を受けたり仕事を探しているが、元より勤労意欲も生きる意欲もないのだから、空疎と諦念の間を行き来する。金の心配を毎日しながら寝てばかりの生活。

 錠剤を水、時々アルコールで流し込み、スマホでギャンブル。大抵負けるし、買っても止められない。常に残高をスマホでチェックする。愚か者の確認行動もギャンブルも止められない。

 もう駄目だよ流石に立ち直らなくっちゃ、ってさ、こんな生活を続けていたのを終いにしようとしても、すぐには断ち切れない。借りた金をスマートフォンで気軽に賭けて、溶かすのは屑の快楽。お金が欲しいんじゃない、死ぬ理由が欲しいんだ、

 なんつって、たまに日雇い仕事にもでるし、売れそうなものを売り払い、とりあえず今月の支払いを工面する。たまには死にたいって思うしたまには生きたいなって思うよ。

 その日は現場が原宿でお洒落な人が沢山いた。普段は見ないようにしていたけどさ、やっぱり着飾って金かけてる人、洋服が大好きだって分かる人らを見ると少し幸福な気持ちになる。俺も昔は服が大好きだった。今ももしかして。

 少しだけ、借りた本や溜まってた本を片付けることができるようになっていた。本を読むのってエネルギーがいるし、何より余裕がないと無理だ。俺はずっと、十数年も一人で読んだ本の感想を長々と書いていたが(特に二十代の頃)ある時、そういうのをする気が無くなった。他人の作品に費やす時間も大切で楽しくって豊かな物だが、自分のを書かなきゃって。他人の書評批評感想を沢山書き続けて、自作の小説を書くと言うのは難しいことだ。気軽なのだったらできるかもしれないけどさ、どっりもやるのはね。無償でね。十数年独り言を続けていると、ふと、終わりにしたくもなる。

 新しい小説を書こうと思っていたが、今の状況ではとても無理そうだ。薬の量も増えたし、頭がうまく働かないし、何より金を稼がねばならない。お金。死ねばいいのに。お金を殺して燃やして、金銭を虐殺して生きる仕事、ネットで募集していないのかな。

 数年ぶりに、かなり昔に登録した日雇いで日銭稼ぎ。知っているメンツがいて、あー懐かしいなって、そんなに親しくはないけれど皆がんばってんだなーって少し卑屈になっちゃって、でも明るく振舞っていると、一人の友人だった男と再会した。多分、3,4年ぶりくらいだった。

 彼は、長身の俺と同じ位の背の高さでおまけにガタイが良く喧嘩も強く、物凄くお調子者で、お茶目で雑でポジティブで、人の痛みが分からない男だった。

 多くの人は馬鹿だなあと思うだろうが、昔は悪かったんだよねーとか自慢をする男と言うのは俺のいるような環境にはそれなりにいて、俺も馬鹿だなー

 やってもいいけど(よくねえよ)言わなきゃいいのになーって思ってしまうのだが、その中の一部の人には親近感のようなワルガキに対する好意のような物を抱いてしまうこともある。

 日雇いで出会ったその彼は、ガチの人で、あまり多くを言うのは良くないので控える。しかしそいつは「虎彦(仮名)パイセンむしろどんどん書いちゃって下さいよ」とか言ってしまうような奴だ。前向きなドエム、いや、恥という概念が彼には欠けていた。不利なのは嫌だけど、勝つのも恥部を見せるのも大好き、自分大好きの男。

 もめごと大好き。お金女大好き。良心の呵責や常識が全くない。でも、世渡り上手で、結構友達思い(のように見える)。

 仕事で知り合った人と、遊びに行くことなんてほぼないのだが、彼とは何度かご飯を食べたり服を買いに行ったりした。俺は本が大好きで彼に「読みやすい本」をあげたが、多分一冊も読んでないだろう。

 本なんて読んでいるときちがいになる。たぶんきっと。

 金と性欲と快楽の為に頑張って仕事をしたりしなかったり。それが生活の知恵というか、人生を生きる上で必要な一面なのかもしれない。 

 でも俺は働きたくないし、働くときちがいポイントが俺の身体にたまってくるし。一人でずっと本を読んでいてもきちがいポイントはたまるし。

 逃れられない気が狂う恐怖。

 こんな極端な思考をしている勤労意欲のない人間だからか、大抵の友人とは関係が続かない。ちょっとしたことで、俺がぶちぎれるか、相手が俺のヤバさに引いておわる。

 俺はただ、神様の赦しについてとかユニコーン麒麟や天使性や宝石や悪人やデーモン、本物のぞっとするような憎みや恐怖や豊かさや芸術について語りたいだけなのに。紅茶を飲んで音楽を聞いて、誰かの瞳の中のデーモンについて語りたいだけなのに。

 彼とは小さないざこざがあって、俺がスマホの機種編で全部データを消したから、それ以来だった。俺の中では、彼は昔仲良かった人になっていた。

 でも出会った彼は、持ち前の空気の読めなさとスーパーポジティブさでぐいぐい俺に話しかけてきて、俺も適当に話を合わせていて、彼は会話をしていてすぐに実は、と新しい犯罪の告白をしてきた。結構な大事というか、俺なら一生誰にも話さないようなことだが、彼にとってはそれも話のタネなのだ。恥知らず。痛み知らず。

 俺は自らの恥と痛みを意識しすぎる人生だよ。

 マジばかだなーどうしようもねえなあって思いながら、でも、久しぶりに話していると数年前の時とお互い何も変わってなくって、わだかまりもなくって、悪ふざけばかりしながら仕事をしていた

 俺は何曲か歌を歌いながら仕事をしていて、彼がヤバイ自分の近況を話し出したから、俺はもののけ姫のサビを歌って、彼は爆笑していた。仕事中に歌を歌うっていう時点でかなりきているが、彼が楽しそうだからそれでよかった(よくねえよ)

 夜遅くに仕事が終わって久しぶりに会った人らとコンビニで酒を買って地べたで飲んだ。あーこの感じ懐かしいなって思った。久しぶりに会う人、もう二度と会わないかもしれない人。好きでも嫌いでもない人、お世話になった人、過去にぶちぎれた人。色々いて、俺は割と気分屋で愛情深くて狡い人間なので(自分でこういうことを書ける卑しさ)、色んな人と楽しく話していた。

 楽しかったっすよねーそういうとこ好きっすいやーまじ会えて良かった、みたいに幾らでも素直に言葉が出てきていて、俺は嘘をついていないが、屑だと思う。

 でも、その場で誰かが喜んでいたなら、その時だけでも嘘をついていないなら、それでいいんだって思っている。

 彼は色々悪いことやとても下品なことやずるいことをしながらも楽しそうに生活をしていた。良心や自罰がないからか、彼はいつでも楽しそうだ。ノリが良いバカという点を除けば、俺とは真逆かもしれない。   

 あ、違った。一つ大きな共通点があった。彼も俺もヒリヒリしてないと生きていてつまんねえなって思う所。俺は、まあ、色々体験もあるけれど、作品に触れて作品の中でそれを作り出そうとする。デーモンにもし会えるとしても、作品の中でね。

彼は自らトラブルに飛び込んで、痛い目を見たりしながらも、悪いことや楽しいことを自分の身体で受け止めようとしている。

 色々話してかなり盛り上がって、でも終電があるから解散。俺以外はほとんどみんな仕事があるし。日雇いだって仕事は探せばあるけれど、そんな働くなんてきちがいみたいだろ。俺はしたくないし

 別れ際、彼に「俺は色んな夢を持っているひとの真剣さとかきらきらした言葉や表情が好きでさ、それとさ、罪を語る人間のギラギラした愚かな輝きがヒリヒリして好きなんだ」というようなことを伝えた。

 彼は本を全く読まないからこういう例えとか通じるのかなって思ったけれど(彼に限らず本を読まない人は長話やたとえ話をとても嫌う、あ、俺の話がくどくって駄目なだけか)、彼はニヤニヤして「やっぱ虎彦(仮名)パイセンといると最高っすわ!」って返してきて、俺も猫の笑みを返す。

 彼とラインを交換した。俺はギャンブルで数十万負けてるから奢れよって言っていて、今度彼に奢ってもらう予定だ。

君も俺に奢って。それか、直接会ってニヤニヤしながらヘドロの輝きで自慢をしてくれよ。

賭けに負けたんだ

 ここ一か月、ギャンブルに狂っていた

三十数年生きてきて、ギャンブルはほぼしなかった。だけど、ストレスの爆発と、躁状態と、小説を書き終えたタイミングが重なり、最悪の結果を生んでしまった。

 今月で仕事が終わるのに、その給料を含めて、貯金以上の金を溶かした。数十万溶かした。毎日ギャンブルのことばかり考えていて、多少勝った時もあった。なのに、その金も全て賭けた。とにかくずっとお金をかけていたかった。

 素人だから下りどころが分からないということもあるだろうが、もう、嫌になった。破滅して見たかった。それか、ほんの少しだけ、お金の心配をしない生活をしてみたかった。

 結果、借金をすることになった。一応これまでの生活で、ぎりぎりで借金はしてなかったのに、一線を越えてしまった。

 その金でギャンブルをしたい欲望もある。だが、俺は何の為にこの惨めな生活を続けているのだろう?

 俺は小説を書いている。誰も読まないような、純文学の小説。読みにくくってエゴイスティックで、俺は、好きな小説。

 誰にも読まれない、お金にならない小説。

 賞に応募しても通らない。というか、俺はその雑誌を読んでいない。古い人の文章が好きだから(今の小説家が劣っているとかいいたいわけではなくて、現代の小説家でも好きだなあうまいなあって人はいるけど、昔の小説家の方が超好きすぎるんだ)

 賞に応募する小説は、一般公開してはいけない、未発表の物に限るらしい。それに、わざわざ俺の小説をお金を出してまで読もうとする人はいないだろう。

 ずっと、孤独で、それはニッチな物を偏愛する人間だから仕方がないことだと思っていた。色んなことがあっても、どうにか誤魔化し目隠し、やりすごしていた。

 でも、もう限界だ。借金をして生活費を工面する。仕事もない。展望もない。美術は好きだし、書きたい主題はある。でも、生活とお金の不安で何もできずにいる。帰宅して、家でずっと動画を流しながら寝ているだけ。

 惨めな人生。

 何作か、手ごたえがある物が書けた。でも、お金にもならないし賞もとらなかった。二十代はそれでもよかった。俺が自分の作品を好きでいられることが一番大切だから。かき続けることが一番大切だから。

 でも、もう疲れた。俺は賭けに負けた。数十万の損失で終わる人生、滑稽だ。希死念慮を薬で抑え、仕事を探している。もし、仕事が決まっても、続けられるメンタルかは分からない。

 最近はずっと、叫び出したくって泣きたくって仕方がない。叫ぶのは一応抑えているが、涙はボロボロでる。

 でも、無様に生き延びている。哀しい。いつ、俺は安らかに死ぬのかな。

余生の終わり

小説を書き終えて、文学賞への応募を完了した。少しだけ気が楽になると共に、自分にこの先がもうないような気もしてくる。二十代はなんだかんだで乗り切れたことも、三十代後半になってくるときつくなってくる。

 今回のギャンブルで多額のお金を溶かしてしまったのは完全に自分の責任だ。買うか悩んでいた、お絵かき用のタブレットは当分買うことはできないだろう。

 本当に愚かなのだが、今もギャンブルがしたい。お金を取り戻したい。生活の不安を少しでも減らしたい。だが、それが負債を増やすだけなんて馬鹿でも分かる。

 だけれど、馬鹿なんだ。本当に底の底までいかないと、理解できないんだろう。今は踏みとどまれているが、借金ギャンブル生活が眼前でぼやけて見えている。

 というか、数十万程度で自分の人生が狂うと考えると情けなくも馬鹿らしい。そんな金で人生終わらせようと思うなんて。

 自分としては、十数年もの様々なことが重なって、精神的にまいっているのを自覚した。色々あってもなんだかんだで立ち上がってきたけれど、さすがにきつくなってきた。

 書きたい小説の構想はある。でも、何度書いても誰にも求められず、その他の生活も上手くいかないのなら、もう生活も終わりにしたい欲望が目の前をちらついている。

俺は薬を飲んでようやく仕事に行けたり行けなかったりする人間だから、お金が無いから沢山頑張って働くというのが難しい。無理をしてそのぶり返しも怖いし、今の自分の精神状態がいつもよりもずっと不安定なことを自覚している。

 頭がおかしくなるのが怖い。自分が自分でなくなって、他人に迷惑をかけたりひたすら寝るだけの生活。過去にそういった期間があって、その無駄な時間を今も悔いているし、そこから立ち直った自分の人生は余生だって思ったこともある。

 余生の終わりを考えると、怖くなる。何とかして立ち直ろうとしてはいるが、それと同じ位、もう破滅して自殺したい気持ちを処方箋で抑え込んでいる。

 それに、もう、躁鬱の薬を十数年も飲み続けるのも嫌になった。十数年躁鬱の薬を飲んで、小説を書いて、得られたものは?

 俺は自分の書いた小説が好きだ。様々な人の作品に触れ、歳をとってようやく理解できたことや、その美しさをより深く感じられるようになったこともある。歳をとるのも悪いことばかりではない。

 でも、それ以外はボロボロだ。素晴らしいこと楽しいことも結構あったし、自分の小説(作った物)が好きだと言えるのは誇れることかもしれない。

 ただ、それ以外の不安憎しみ悲しみ虚無、そういった物の方がずっと多きかった。美術やら処方箋やらが一時の鎮痛剤で、そういうのを誤魔化して生きてきて、限界がきたのだろうか。

 限界を感じたきっかけがギャンブルで大負けしたというのは、自分でも笑えてくる。お金。芸術や親しい人や自然等ではなく、お金のことばかり考え悩む人生。

 いつも、一応前向きなふりをしているのだが、今回は分からない。疲れた。疲れたんだ。

中年男性はプロメテウスがお好き

色々とあり体調を崩す。それでも生活の為に日銭稼ぎ。頭の中にはいつも完成させていない小説のことがあり、神経が休まらない。

 いつまでこんな生活を続けるのか。まだやれるようなもうそろそろ終いにしたい、なんてことを考えながらもすり減らす日々。

 過日、やっと小説を書き終えた。まだ推敲や直しが多々あるにせよ、一応はラストまでこぎつけて、ほっとした。あと何本小説を書けるんだろうって、そんなことを考えるようになってしまった。現実を、幻想で幻覚で目隠し。こんな生活に嫌気がさしているけれど、俺を救うのはきっと幻想。誰かの幻想。或いは、お手製の幻想。真実に眼を向けたら狂ってしまう。それよりかは内なる虎や一角獣の肌を牙を思う方がまだ健康的だ。

 雑記

 小説を書くことができていて、本も読めている。やりたいことは沢山あるのだが、詰め込み過ぎて、疲れて寝てしまう。小説を書いたり、他人の作品に入り込むと、とても満たされたような気持ちになる反面、人とあったり労働するのがとても恐くなる。労働しても正気って、不条理小説みたいで奇妙で恐ろしい

ルフレッド・ド・ミュッセ『ガミアニ』読む。謎に包まれた妖艶な伯爵夫人は、令嬢を寝室に誘う。そこには既に夫人に惹かれた青年がいた。軽妙洒脱な戯曲とは異なり、スキャンダラスな性愛小説。刺激の多い現代人が見るとやや退屈かも。それでも、最後まで読ませる筆力は見事。

金子信久『江戸かわいい動物』読む。権力や宗教のためではなく、江戸時代では人々の楽しむ為の絵画も花開いていた。空想やデフォルメ、或いはリアルな動物の姿。とてもかわいい。それは、画家の動物への温かい眼差しによるものだろう。好きな物を自分の美意識で真剣に描く。愛のある物はカワイイ。

解説・監修 海野弘『日本の装飾と文様』読む。彼の監修したシリーズの本は大好きで十冊以上持っている。のだが、この本はどうだろうか。範囲が縄文から江戸としているせいか、広く浅く。とてもハイセンスな学校の教科書というか、有名な物を集めたカタログのような。見て楽しいが、驚きは少ない

渋谷の本屋で本棚を見ていたら、隣に歩いて来た女性二人が会話をしていた。
「ねえ、今度ザリガニ釣りに行かない?」
「えー。男釣るなら行きたーい」

渋谷は今日も平和です。皆さんは何を釣りたいですか?
俺はファミコンのソフトを釣りたいです。

昔DSのでコンタクトというゲームがあった。色々できるアクションロールプレイングゲームで、釣りをするコマンドがあり、バスタブに釣り糸を垂らすとファミコンのソフトみたいなのが釣れて、ドキドキした。

沖縄にファミコンを釣りに行きたいな。

宗教に関する本を読むと、救い、帰依する人の救われたいという心情等が出てきて、毎回引っかかる。俺は神様がいて欲しいし(信じてないが)宗教美術とか好きだが、救われたくない。というか、何で神様が人を救うのか理解できない。
人を救わない、人間に有用ではない神様や悪魔や天使のことを考えると、気分が軽くなる。ゲームのバグのような、天災のような、無慈悲すら与えてくれない、残酷な知覚の外部について思いを馳せ、憧憬の火が灯ると、怠惰な俺の身体に血液が循環する。悪魔や天使や神様、人間のことを愛さない彼らのことを思うと健康になると思う。トマトジュース飲んで彼らを思い健康に

『「琳派」の迫力と美しさ宗達光琳』読む。子供向けの本だけど、大人が読んでも楽しめる。俵屋宗達の生没年不明➡古い時代の有名な画家の記録は貴族や寺のために仕事をした人のが主。琳派の繰り返すモチーフや真似る実物の説明、実物大の絵画の画像等琳派の魅力を分かりやすく伝えている一冊。

蓮實重彦『光をめぐって 映画インタヴュー集』また読む。ゴダールビクトル・エリセとの対話が特に好きで、(ゴダールとの対話でも上映時間についての言及がある)蓮實がエリセに貴方の映画は二本とも一時間半で、いま一時間半の映画を撮れるのは貴方とゴダールだけ、と発言していて、とても好き

ゴダールの全方位悪罵が気持ちいいのは、的確である(ように感じられる)こともそうだが、彼自身が文化を映画を愛し闘っているから。蓮實に『パッション』の映画監督は光が撮れないと悩むが、あの映画の光は素晴らしいと言われ、カメラのラウル・クタールの照明が見事だから残すというやりとり好き。

ローベルト・ヴァルザー『ヴァルザーの詩と小品』読む。スーザン・ソンタグの「散文によるパウル・クレーだ」という文に惹かれて読んでみると、確かに繊細で臆病で子供っぽさのある作品達。だが、読み進めると、作者の憂鬱、どこまでも忍び寄るオブセッションに、アンナ・カヴァンに近しい恐怖心

があるようで、彼女よりはユーモラスな作品なのだが、解説で精神不安で嘲笑の声が聞こえたり自殺未遂したりして療養、という文を目にして落ち込む。茶目っ気があって臆病で素直な眼差し、子供のようにな感受性を持つ作品の魅力に通底する精神不安。アンナ・カヴァンもだけど元気な時に読むべき本かも

林綾野『画家の食卓』読む。画家が描いた、口にしたであろう料理(モチーフ)を再現。自分には無い視点で物を見ている。楽しい。宮廷肖像画家のリオタールの描いたチョコレートを運ぶ少女の絵に蜂蜜も砂糖も描かれてない、画家はストレートのままが好きでは?等細やかな視点が絵を見る時の魅力を増す

『別冊太陽 円山応挙』読む。画が上手いとか画力があるというのは、褒め言葉ではないこともある。しかし、応挙の日本画は、写生は、上手すぎる。物を捉える画力が実物以上の魅力を引き出していると言っても過言ではないはずだ。俺は大胆な画やデフォルメを好むけれど、応挙の画を見ると完成された構図

の素晴らしさに清冽な心持ちになる。無駄の無い絵。俺は写実や写生をわりと軽く見てしまう所があるのだが、彼の作品を見ると見たものをかくというシンプルな行為に思いを馳せる。応挙だって、実物を見ていない虎はデフォルメが大きく、見ていて楽しい。しかし、見たであろう動物の画が本物以上にすごい

菫のチップが入ったチョコレートを食べる。チョコレートはやや甘さ控えめでおいしい。菫の味や香りは弱い。食べ終わった後に口の中に僅かに残る。その主張の弱さも、菫らしいというか、菫のチョコレートと言うだけでかわいらしいというか、とにかく俺はかわいい物や菫に点が甘い。

図録『古径と土牛』読む。師弟関係(兄弟弟子)にあった二人の作品が収められている。日本画と西洋画のどちらの影響も受けた彼らの絵は、とても心地良い。真面目な、物を見て描く絵だ。この印刷では分からないかもしれないが、実物は古径はぽってりとした塗りの暖かさ、土牛は柔らかな線の魅力を感じた

https://youtu.be/AjlSyiCGm9k
心がやさぐれ、ミレニアムの素晴らしいアルバム聞いていて、there is nothing to sayが本当に素晴らし過ぎて震える。超好きなgreat3もカヴァーしていて、そちらもめちゃくちゃ良い。アキトの甘く優しく寂しげなヴォーカルがたまらない。良い曲は一瞬、世界を変える。

ウィリアム・モリスのフラワーパターン ヴィクトリア&アルバート博物館コレクションを中心に』読む。手に取りやすいサイズの大きさだが、図版が大きくプリントされているから、モリスのデザインを見るのに丁度良い。植物の曲線と主張がありながらも調和した構図は、見飽きない魅力がある。

『浮世絵でめぐる江戸の花 見て楽しむ園芸文化』読む。浮世絵は江戸時代に花開いた町人の絵画の文化。また、江戸時代は植物栽培がとても盛んで人々の生活に根付いていた。歌舞伎も人気。浮世絵の中に描かれた花の説明や、当時の風習への丁寧な紹介が有難い。勉強になるし、浮世絵への理解が深まる。

人に渡そうかなと、相撲特集の芸術新潮を買い、中を見たら中平卓馬の名前があり、あ、渡せないやと思った。聞き手・文 大竹昭子とクレジットがされており、その文章は本で読んだはずなのだが、見たことがない写真が見られた。嬉しい。記憶を失った彼が撮った、息子の写真についての下りがとても良い。

『クリスチナ・ロセッティ詩抄』また読む。画家でラファエル前派の、兄ゲイブリエル・ロセッティのモデルにもなっている。彼女の詩は神や自然や思い人に捧げられたもので、その多くが哀しい色を帯びているようだ。しかし、品があり、強さを感じられるからか調べは美しく胸に迫る。野の花のような詩人

蓮實重彦 山根貞男編『成瀬巳喜男の世界へ』また読む。関係者へのインタビューや監督らのエッセイを集めた一冊。やっぱり蓮實の文書がとても良い。二間、狭い日本家屋や光について執拗に書いている。ある監督ならば、映画は男と女と光で作れてしまう。庶民的な、というより辛い立場に置かれた女性の生き様が描かれる成瀬巳喜男の映画。息苦しさや逃げ場がない(逃げ続ける)中でも、女性の強かであったり必死な姿を見ると、多少の痛ましさと共に美しさを感じてしまう。それは、作られたセットや光(そこからの脱出)によって作られている。陰影と明暗に注視して、また彼の映画を見たくなる。

ジョン・エヴァレット・ミレイ ヴィクトリア朝 美の革新者』読む。ラファエル前派の作品だけではなく、アカデミーでも成功を収めた彼の様々な作品が収められている。大きな図版に加えて、一部分も大きく並べられてい為、筆致も感じられ見ごたえがある。可愛らしい子供の絵も多数あり楽しい。

フィリップ・ガレル『内なる傷痕』また見る。一時間という短さが良い。映画というより、ニコのMVでは?ともおもうけどそれでも良い。彼女の叫びや嘆きの様な歌声が痛ましくも心地良い。言葉はあっても一方通行で、入口も出口もないような風景が続くのも好きだ。広漠とした景色で見るものも迷子になる。

アンドルー・ラング『書斎』読む。19世紀の小説家であり詩人の著者による本への偏執的なこだわりを披露。とはいえ、読みやすい文で押し付けがましくなく品もある。美しい本を愛するのは訳者の生田耕作にも通じるか。俺は読めればいいけど、麗しき本の奴隷になれるのは、きっと紳士だけ。

渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムマン・レイと女性たち』見る。彼の作品はちょくちょく目にしているが、一度に彼だけの作品を見るのは初めて。惹かれた女性と新しい表現を続ける姿は知っている作品が多くても楽しめた。ランプシェード?をモチーフにしたイヤリングをしたドヌーヴ美人過ぎる!

ビクトル・エリセ監督『エル・スール』また見る。好きな映画なのに、何て感想を言ったら分からない。色んな美しさや微笑ましさがあるけれど、ずっと不安が物語を包んでいる。しかし、それに対峙する覚悟があるから、単にセンチメンタルな映画なんかではない。人の生活の楽しさや哀しさを思う。

宇山あゆみ『夢のこども洋品店 1960-1970年代の子供服アルバム』読む。題名の通りの本なのだが、見ていてとても幸福な気持ちになった。それは、我が子に素敵な洋服を着せようとする親の暖かさが伝わってくるからか。紹介されている洋服はどれも可愛らしくて品がある。小さい頃の記憶が蘇る一冊

いつものエレガントで使いにくいカップではなく、シンプルなノリタケのマグカップを買った。ノリタケは値段がお手頃価格なのに品があって使いやすそうなのが多くて有難い。マグカップ毎日使おうっと。

ゴダールの『イメージの本』また見る。88歳の映画監督がまだ新しい表現を探りつつ挑発的な映画を撮ってるってやっぱり凄い。様々な引用とコラージュ。必ずしも好みではないものもあるけど、音(無音)の使い方が一番上手い映画監督ではレベルで心地良いし、また見たくなる。

ヘルダーリン詩集』また読む。現実の生活よりも自然や古代ギリシアの神々を見て讃えていた詩人。三十代で病気になり、後の人生を塔の中で過ごす。古き時代の、見えない神への愛が人を狂わせるのかと感傷的な思いがよぎるが、彼のロマンチックな詩は品があり美しく、それだけでいいのかなとも。

デパ地下で立派な桃買う。とても大きくて、いい匂い。
冷やして食べてみる。あ、まだ固いぞ。もっと熟してから食べれば良かったと思ったが、柔らかい部分はとても甘くて美味しかった。見た目が良い物を口にすると、ふんわかほわほわした気分になる(平和なべ)

花の本を読んでいて、ゲーテの菫の詩を思い出し、ふと、花の口づけというキャンディの味を思い出す。まろやかで甘酸っぱくて、何よりネーミングが良い。海外だとflower kiss candyとして売られているそうだ。とてもかわいい。

三井記念美術館、『自然が彩るかたちとこころ』日本画茶道具等見る。
特に二つの作品がめっちゃくちゃ良かった。本阿弥光悦 黒楽茶碗 銘雨雲。黒い茶碗に靄のような、雨雲のような模様が入っており、器の形も飲み口は薄く少し歪んでいるのに全体が調和していて品がありとても素晴らしかった。

中でも本当に凄かったのが円山応挙 雪松図屏風。印刷されたものではなく、対になった大きな屏風を見ると圧倒される。本当に新雪(描かず地の白で表現)が量感をもって迫ってくる。松の葉の広がる力強い表現。その上に白い雪が広がる姿はこの世の物とは思えない、円山応挙の卓越した『写生』の力を見る

 日本画って印刷されたものではなく、実物を見なければなあと、素晴らしい作品に出会う度に思う。屛風絵、家に飾りたいが置けるスペースがない。金もない。

https://youtu.be/GbmsUw0-Ogw
いえにこもってバッハのハープの演奏で、不健康な人間が不健康な小説を書く。たまらずに外に出ると、雨の中でも民家のラベンダーの香りに出会う。気分が良くなり、歩きながらグールドのバッハのイタリア協奏曲3番聞く。脳を愛撫されるような幸福。家でも外でもバッハは万能薬

A・アルトー『タラウマラ』読む。メキシコのタラウマラ族との出会い。ペヨトル(薬物治療)/ダンスの儀式によって受ける啓示のテキスト。精神病院に何年もいた昔の芸術家が薬物と未開の地の儀式でラリった。って書くと安っぽくなるし、そういう見方も必用だと思うが、アルトーの思想への理解が低い俺

ではあるけど、彼のテキストは胸を打つ。それは本気であること、ポエティックな美しさとダイナミズムを感じるからだとおもう。本書でのキリスト教に関するアルトーの言及は、錯綜しているような。俺の理解が低いのか。143pの愛と神について語っている部分は美しい。神に近づこうとすると気が触れるのか

youtu.be/0sDleZkIK-w
バッハ関連のYouTube流しっぱにしていて、アンドラーシュ・シフの演奏が上品な優等生って感じでずっと聞いていられた。情緒不安定な小説制作のお供に、優雅だが控え目なピアノはとても助けになった。有難い。

城一夫『日本の色のルーツを探して』読む。色にまつわる文化や歴史を紹介。金色で琳派婆娑羅という項目で傾く日本文化紹介楽しく読める。中でも中国の水墨画での技法、墨は薄めると「焦 濃 重 濃 淡 清」の5つの諧調を作り、この「墨の五彩」で有色に劣らない世界を表現する。ここ深く知りたい

 

 おっさんになり、そろそろ身体と精神にガタがきているのを日に日に感じるようになってきた。芸術家が気がふれる、というエピソードを見る度に明日は我が身だと思う。それと同じ位、ヘンリー・ダーガーのように低賃金労働を続け、自閉的な作品で自分を慰め死ぬのかなとも思う。

 でも、まだ作りたいものがあるから、それまで正気で。つーか、変換で最初に瘴気って出たんだ。おそろし。

 

世界で君が頑張ってなくても好きって

久しく日記を書いていなかった。新しい短期の仕事で色々とあった。これから先も分からないのだ。自分が生きていることが不思議な気持ちになる。幸福や不幸を感じられることに、ふと、感慨深く、他人の興味深い生活に触れているような感覚になる。

 しかしこれは自分の人生。何度も嫌な波が訪れるけれど、修正せねばと見たいものを見なければと思う。

雑記。たまってるなー

 

 成瀬巳喜男監督『娘・妻・母』また見る。還暦を迎える母親を、大人になり家庭を持つ子供達が祝う。しかしお金の問題で、家族に亀裂が走る。出演者、高峰秀子 原節子 草笛光子 森雅之 宝田明 仲代達矢等々本当に豪華。都合の良いお金の無心、母親の押し付け合い、所詮は皆他人。それぞれの生活が

あるのは分かるけれど、見ていて胸が痛い。ただ、家族だって他人、というテーマと同じように、血が繋がっていてもいなくても親愛があるというのを、娘妻母役の三人が示してくれている。利己的でお金に困る描写が多いのだが、脚本に説得力がある上にメリハリがあり納得させてしまう監督は見事。

成瀬巳喜男は本当に庶民、人々の悩みや生活を描くのが上手いなあ。グチグチして嫌になるシーンも、彼の映画ならさらりと見られるのは、構図の美しさ、テンポの良さ、基本抑えた演技(描写)だけど、見せるところはきちんと見せるといった職人芸があってこそか。オッサンになって彼の凄さにさらに気づく

話の流れで『ナニワ金融道』(教頭先生の回)でぼろ泣きした、と言ったらドン引きされる。FF6のロックを最初は全然好きじゃなかったが、お調子者のふりをして、死んだ恋人を蘇らせようと保管しているエピソードを知り胸キュン。ナニワもロックの同人誌もないので、朝田先生のとても素敵な本で脳を浄化す

どんな理由があるにしろ、死体を(できればきちんとした状態で)保管しているって、ポイント高いよな。何のポイントかは、わたくしめには分かりませんが。

死者蘇生系のエピソードって、大抵悲しい結末を迎えるんだけど、たまに例外もある。大好きな人は蘇らないって物語に慣れていると、死なないことに、永遠の生命愛情に俺の脳がバグる。あ、今シューマン聞いてるんですが、死者蘇生の話題にとても相性が良いですね(?)

科学者が愛した人のクローンを100人作る。全員にランダムで武器を与えて殺し合いをさせて、最後に残った一人に、ネタばらし。科学者は自分を殺してくれと頼む(お金も貰える)
 どんな決断を下したのかは分からない、最後の一人のクローン君をケアするセラピーシミュレーションゲームがやりたい。

『名画を見上げる 美しき天井画 天井装飾の世界』読む。その名の通りの一冊、大型本で全体と細部の写真が載っていて迫力満点。本書は、宗教(教会、モスク)文化(劇場、美術館、カジノ)権力(宮殿)政治(市庁舎、議事堂)という四つの章でまとめられている。美しい天井画や建築と共に

その成り立ちも解説されているのがありがたい。教会で人々が見上げる(聖人等の絵画の題材に見下ろされる)一方で、モスクでの装飾に具体的なモチーフが排除されている(偶像崇拝の禁止、神以外崇めるな)といった対比も面白い。一定の距離を保った場所にある作品というものの魅力を伝えてくれる一冊。

なんで子ヤギは歩く時に常にぴょんぴょんしてるんだろう? 昔テレビで、トトロのメイの動きが、ピンボールの玉の動きを逆再生してるみたいで不規則で魅力的と紹介していたと思う。不規則ぴょんぴょんはかわいい。アニメ詳しくないが、プロメアもとても良かった。動くのを見るだけでも楽しい。

眠れない日が続いている。日々が怖いと眠れないし落ち着かない。音楽をとても小さい音量で流しっぱにしているが、ネクロノミコンをもぐもぐする音声あったらとても良いと思う。朝起きたら人皮の聖書になっていたら怖いから、新宿で芍薬の花を買えば良かった。

夏だから毛皮が欲しい。動物園にいない方の麒麟の毛皮が欲しい。きらきらふわふわしてそうだ。麒麟の毛皮を着て安いビジネスホテルの硬いベッドの上で干からびたい。

昔片眼に模造宝石を入れられる人を書いたので、眼球摘出について調べていた。(昔は?)眼球と眼窩の筋繊維を鋏でぶちぶち切るらしくって、とても怖い。ゲームだと隻眼盲目キャラは強いのが多い。それもいいが、自分は身体を改造された、きらきら駄目人間が書きたかった。今ならもっと上手く書けるかな?

恵比寿の今井キラ個展見に行く。フリルと花の組合せの作品が多くて、うっとりする。かわいい。スマホの画面で見ても素敵だけど、大きなサイズの原画の微妙な濃淡が、一枚の絵なのに雄弁な童話の世界の様にロマンチックで素晴らしい。本買いました。複製原画も欲しい。

 今井キラは生きてる中で今一番好きなイラストレーターかもくらい、魅力的で、見ていて幸せな気分になる。花、フリル、少女の秘められたひそやかな世界。

木下恵介監督『お嬢さん乾杯!』また見る。貧困から成り上がった壮年の佐野周二。嫌々行ったお見合いで元華族原節子に一目惚れ。身分違いのラブコメ木下恵介の演出は大げさなのが多くて苦手、と思いつつも、テンポも構図も良いし話も王道で分かりやすくてほんと上手い映画。没落華族役の原節子

が、はまり役過ぎる。この映画は1949年のなので、元華族という設定がマッチしていたはずだ。ショパンの幻想即興曲が流れるのだが、年代のせいか?レコード(ピアノ弾いた人)のせい?、演奏がかなり下手に聞こえた。
関係ないが喫茶店ルノアールショパンみたく当時はとてもモダンな象徴だったのかな

『モンス・デジデリオ画集』読む。題材にキリスト教、聖書の場面を用いるのに、主役は人(神、聖人)ではなくて建物であるかのような奇妙な画。しかも、倒壊する建築物の絵画だ。ボスに近しい細密的幻想悪夢も感じるが、それよりも彼の画は乾いている。人間も神も屹立、或いは倒壊する建築物の装飾なのか

ギーガーの自伝的エッセイ付きの画集『ネクロノミコン』見る。彼の作品をまとめてきちんと読んだのは初めて。作品も魅力的だが、彼の自伝的エッセイが興味深い。様々な病的なことや不安、トラブルが続いても、かく。それしかないんだって。本人は健康でいたい的なコメントしていた(メンタル病んだ

人が自分の作品を好むけど、そういう人らのよく分からないのに絡まれるのはこりごり!みたいにハッキリと言えるのは、制作者の健康の為に大切なことなのかも。健康って、何かを作るのにとても大切なのだ。何度もトラブルが起きても、他者や作品を大切にして楽しむことを忘れないようにと自戒。

『映画と演劇 ポスターデザインワークの50年 知られざる仕事師の全仕事』小笠原正勝 読む。本当に大好きな、昔の映画のポスターのあれもこれもそれも、一人の人が担当していたとは! 有名な映画があり過ぎて、見ていて本当に楽しい。映画の魅力を伝える為のポスターは、予告編の様な魅力大!

市川雷蔵主演映画『斬る』見る。剣3部作の一弾。天才剣士が辿る悲劇の人生。時代劇、チャンバラ映画苦手だ。でもこれは71分と短いし雷蔵だしと気軽に見たら、とても濃密な設定でテンポも速い作品だった。チョイ役の人達にも見せ場がある。前半後半での雷蔵の顔つきの違いを見られるのも楽しい。

市川崑監督『あの手この手』見る。恐妻家の大学教授。夫婦仲はギクシャク。家出した姪のじゃじゃ馬娘が転がり込んできて、静な家が引っかき回されるホームコメディ。1952年のモノクロ映画で、画質がかなりよくない。しかし市川崑が得意の登場人物のユーモラスで洒落た掛け合いが面白い。

ウィリアム・バロウズ/アレン・ギンズバーグ『麻薬書簡 再現版』また読む。この本(再現版ではない?)を初めて読んだのは十代の頃。十代男子の将来なりたい職業トップ3は、キリスト、カート・コバーン、ヤクザ(電⚪調べ)なのだが、望んだ職業に就ける人はわずかで、大抵殺人鬼として糊口を凌ぐ

若い頃は、アウトロー的な物に憧れを抱いていた。でも、色々あると、その夢も陰る。カッコイイアウトローなんてごく一部。アウトローやヤバイ奴の作品で凄いのもごく一部。でも、バロウズのは今でも好きだ。彼の出鱈目気まぐれに付き合わなくても、日記(形式)の文章だけで十分に良いのだ。

昔、大江某の初期作品が好きだった。でも、ある時気づいた。彼の小説に出てくるヤバイ奴や犯罪者からは犯罪者の匂いがしない。これは小説の瑕疵になるかどうかは、好みの問題だ。犯罪小説家が犯罪者である必要はない。上手く騙せれば良いのだ。でもさ、バロウズはメチャクチャやって、それを描いてる

それが下品でユーモラスで楽しそうで的確で性欲に似た親愛たまーに切なくって、要するにポエジーが、自己中心的な厄介者の、アウトローの詩が見えるんだ。アウトローは自分の体験を大切にし過ぎる。どんな犯罪行為も人生だって、他人にとっては読み捨てられる娯楽だ。なら、バロウズみたいなのが良いな

おとぎ話を集めた本を読む。内容は良いが、アンデルセンの説明文に、容姿が醜く失恋を繰り返して貧困に苦しんで、って書かれてあってモヤモヤ。読んだのは最近の本だが、こういうの昔から書かれていた。アンデルセンの切ない童話は好きなのだが一々容姿が醜く失恋とか書くのは失礼過ぎて止めて欲しい

水の女 溟(くら)き水より』また読む。ラファエル前派や世紀末の画家が描いた、水の女達。彼女たちが持つ死や妖しさをコンパクトな画集で気軽に眺める事ができる。命を奪われる(死に行く)ことが、豊かなロマンテシズムに結びつけられるのは何故だろう。美しい死霊のような死体のような。あり得ない美

『幻獣とモンスター 神話と幻想世界の動物たち』読む。本書はアッシリア時代からの古い図版を集め、人々が神話のモンスターをどのように想像したのかを記す。メジャーなのが多くページも少ないが、図版がエッチングや古いであろう物ばかりでとても雰囲気が良い。馴染み深い幻獣の原型みたい。

最初にあるイェイツの引用もとても素敵だ。

「世界は不思議で魅力的なものに満ちている。研ぎ澄まされた感性をもつ者が訪れるまで、それらは静かに隠れているのだ」

高峰三枝子主演、清水宏監督『信子』見る。九州の田舎から東京の女学校に赴任してきた信子。訛りをひやかされながらも懸命に務めるが、問題児の学生の親は学校の有力な後援者で、誰も彼女を注意できないのだが……
1940年の映画なので、音と映像がとても悪く、日本映画なのにイヤホンに日本語字幕で

見る。内容はシンプルな人情物と言っていいかもしれないが、昔の女学校の言葉使いの丁寧さや画質は悪くてもテンポや構図が良く楽しく見られる。後半、問題児の女の子が先生に『私は悪い娘です』みたいな台詞を言うのだが、そういうの好きな人なら見て後悔しないはず。

『すぐわかる 画家別 幻想美術の見かた』また読む。有名どころから、この人の画集あるのかな?みたいな人まで幅広く網羅。幻想美術、というものに共通点が見られるとしても、厳密に定義するのは難しい。しかし、作者が見たものを見られる、というのは素晴らしいこと。誰かが作り上げた世界は美しい

清水宏監督『按摩と女』見る。戦前の映画。目の見えない按摩が温泉宿へ。そこで出会った女性は、何か妙な影があるようで……
大きな事件が起きるわけではなく、淡々と人々の生活を撮る。しかし、凡庸ではなく、風景も交流もさらりと見せる。井伏鱒二に近しい資質を感じた。温泉宿は人々の交流がある

けれど、そこに留まる人は少なく流動的だ。同監督の『簪』に近しい設定。東京から来た訳ありげな高峰三枝子、彼女を思う按摩。彼は目が見えないから、両者がふと同じ画面に映ると、緊張感のようないけないものを見てしまっているような、わずかな背徳感を覚えた。

ウィリアム・バロウズ『ゴースト』読む。絶滅していく霊的な存在へ哀切を込めて。マダガスカル島の聖なる存在ゴーストと海賊ミッション船長の冒険譚。本書の内容は訳者山形浩生の愛のあるあとがきを読むと良い。次々と現れて消えていく、自分の好きな事ばかり語るバロウズ。メガネザルはかわいい

人間は疫病で死ね。バロウズの書いている物語が幻想文学とは言い難いのは、思いついたもの、言いたいことを好き勝手に繋ぎ合わせている点だと思う。しかし、それでも読めるのは、彼の見る(ドラッグによる)ヴィジョン、その鮮明さ不条理な連なりが[時には]よく見えるからか。92ページしかないのも良い

ラーゲルクヴィスト『バラバ』読む。ゴルゴダの丘でイエスの代わりに助かった極悪人バラバ。人も神も信じない男の魂の遍歴。
1950年の作品で著者はキリスト教の教えを受けているとのことだが、必ずしもキリスト教(教徒)が良くは描かれていないと言うところが肝要なテーマのように感じられた

正直なところを言えば、信仰のある人間の文章にはどうしても理解できない物がある。俺にとっては、神は外部だと確信しているから。しかし、信仰の光により惑い、彷徨う極悪人の姿からは目が離せない。解決なんて無い。輝かしさも、ここにいない神だけの物。『教』にはない。明滅する、人生、目隠し。

ウィリアム・バロウズ『映画:ブレードランナー』読む。ややこしいのだが、有名な映画のブレードランナーとは、ほぼ無関係な内容らしい。

2014年のニューヨーク。人工爆発免疫低下、個人医療非合法化、アングラ医師たちへ非合法な医薬品を運ぶブレードランナー
バロウズなのにとても読みやすいのは

それなりに筋があるし、近未来的な設定にリアリティがあるからか。それと、この小説は脚本のような書き方もされているので、是非バロウズのこの本バージョンのブレードランナーを見たい。映画の『ブレードランナー』は見たことが無い。
アメリカの映画って、友達と一緒に見たいのだ。

絶交してしまったが、昔仲の良い友人が二人いて、たまたま一緒に映画を見た。俺のチョイスで『裸のランチ』を共に見た友人は、途中から寝たから覚えていないと言っていた。映画の途中で寝る人間が信じられないのだが、今思うと裸のランチを見ながら寝ている方が作者に失礼がないようにも思える。

もう一人の友人は、俺が見たことがないスパイダーマンが見たい!と言ったのに、超有名で皆見てるから、ということで『恋の門』を見た。その友人も途中で寝ていた。原作の泥臭いぶつかり合いがとても好きだったので、映画は好きになれなかった。俺は寝ないで最後まで見たけど。

アメリカの人気映画?的な存在?の、スターウォーズもマーベルのヒーロー物もハリー・ポッターダークナイト?も見たことがない。シリーズが多いし、俺はとても集中力がなくて面倒くさがり。友達となら少しずつ見られるような気がするのだが、生憎ハリー・ポッターを一から一緒に見てくれる人がいない

そういえば、二十代の頃、引っ越しをして、親に勝手にDVDを借りられて、怒られた。親曰く『こんなのを見ているからお前は暗いんだ!』
映画はアラン・レネ二十四時間の情事』。十代の頃は、父にキエルケゴールと澁澤龍彦の本をこんなの下らない物を読むなと言われた。母には中上健次と昼顔に苦い顔

でも、当時から友人も金も少ないから、百円の文庫本を片っ端から読んでいただけで、そんなに好きでもなかった。
アランレネは初期の作品は大好きだったが、少しずつ違和感を覚え、遺作は低予算で頑張ってるなあと性格の悪い、寂しい感想がわいた。

十代の頃からずっと、好きな物もほとんど変わらなくて似たような生活。中年のオッサンになっても変わらないのは、たまにぞっとする。死にたくなる位に、自分が生きているのが不思議でほんわかふわふわする位に。
珍しくずっと働いていて、明日は肉体労働。早めに寝ようと思っていたのにな。

上村松園の自伝的エッセイ『青眉抄』読む。十代で初めて彼女の絵を見た時、興味をひかない上手い絵だ、等と感じたように思う。でも、おっさんになり、山種美術館で本物の作品をしっかり見ると、ようやく彼女の作品の魅力に気がついた。このエッセイで、松園の激しさを持ち勝ち気な性格を知った。

遊女亀遊、という作品は、当時幕府の役人も恐れていた外国人が客に来て、大和魂を見せ自害した遊女が描かれている。行為の賛否はともかく、勇ましさは胸を打つものがある。また、自分を女で一つで育てた愛情深い母への思慕。豊かな感情や思いが、絵に現れていると言うのは短絡的だが、その絵は温かい

ウィリアム・バロウズ『内なるネコ』読む。偏屈作家のねこちゃん大好き本として内田百閒『ノラや』を連想した。でも、バロウズの方がずっと自己中心的で妄想や攻撃性偏見罵りが強い。そのせいか、好みの動物への温かな眼差しや素直な態度、描写に切なさを覚えた。皆、好きな物の前では哀れになるのか

ヴァレリー・シュール=エルメル『幻想版画 ゴヤからルドンまでの奇怪コレクション』読む。文学からインスピレーションを得た、幻想的で不気味な悪夢の数々。大きなサイズで見ごたえがある。挿絵というよりも作品を見て、見えてきた幻想の具現化、共有といった感じだろうか。他人の悪夢は楽しい。

ホウ・シャオシェン監督『冬冬(トントン)の夏休み』見る。母が入院して、幼い兄妹は夏を田舎で過ごすことになる。構図マジ小津リスペクトーって思うけど、見ているうちに気にならなくなる。ほのぼのとした話と思いきや、かなり生臭い話ややりきれない大人同士のいざこざも描写。映像は綺麗

だけれど、田舎の閉塞感や偏屈さもひょうげんしている。それでも、色々と解決への示唆もあるし、見終わって嫌な気持ちが残る訳でもない。人々の生活は清濁併せ持ち、少年の『夏休み』であっても、そう。監督のそのままの事実を見ようとする、たしかで温かな眼差しに救われる。

https://youtu.be/1d3003igO6Q
最近全く新しいアイドルソング聞いてなくて、sora tob sakanaの解散今更知ってショック。アルバム『deep blue』聞く。捨て曲無しの素晴らしいアルバム。特に、彼女らを知ったきっかけの『魔法の言葉』って曲が本当良い。つたないボーカルとエレクトロの優しい世界。解散悲しい

白洲正子『なんでもないもの』読む。骨董に関するエッセイをまとめた一冊。読んでいて楽しいのは、彼女が自分を素人と言い続けていること。偽物を掴むのも、手放したり高い物を買えなくても、彼女は骨董と生きている。使う、触る、買う、売る。見る。真偽鑑定とかコレクションの楽しさもあるだろう

しかし、彼女のように永遠にアマチュア(アマトゥール:熱愛者)、数奇者であると言う方が楽しそうだ。お茶に関する門外漢からの苦言は、俺も思うところがある。俺も勿論門外漢だし、道、と名がつくものに言及するのは幾ら言葉があっても足りない気がしてしまう。感覚的な好きと、敬意について思う

久しぶりに小説が書けた。ぎこちなく、一部はうまくいっているような、手探りで沼地を歩いているような。俺は単純なので、体調気分が良くないと思った物が書けないし、すぐに精神がぐらつき、影響される。好きな物を好きでいられますように。脳内環境作り大切。鳳凰麒麟とても欲しい。

定期的に物を売りながら、倉庫のような狭くてヤバイ家に住んでいるのだが、ハマースレイの食器がとても欲しくて困る。優雅で上品。余白とリアルな植物画控え目な金縁本当好き。琳派の鈴木其一位好き。似てる、いや似てない。買えない、1つ買ってしまって、貧乏人が揃えても仕方ないのに欲しすぎる。

奥村土牛の自伝的エッセイ『牛のあゆみ』読む。画風から勝手にすごく真面目でいい人なんだろうなあと思っていたが、想像以上謙虚で真面目な人だった。性格ひん曲がってる人の言葉が大好きだけど、謙虚な人の言葉はよみやすくすんなりと身に染みる。挟まっていたしおりがカワイイ。

 

 一月の間の雑記の一部だけれど、自分が思った、感じた物とは思えないような。日々、というか数分で気分が変わる俺はもう楽になりたいと思いながらも、とりあえずは前を向こうとしているらしい。

 最近、やっと新しい小説を書き始め、新たな悩みを覚えつつも、どこか心地良い。誰にも読まれないような、小説。でも、俺は出来はともかく、自分の書く小説が一番好きな小説だ。バイキングで好きな物をとって作ったパフェ。綺麗に盛り付けられるか、味と組み合わせは良いか、似たような悩みを繰り返す。

 色々あって疲れたんだ。でも、新しい問題は色々とある。ずっとおわらない。でも、たまにはお疲れ様俺って。

 世界でいちばん頑張っている君へ ってハルコの歌がとても好きで、春香さんのカヴァーもキャラにあっていてどちらも大好き。

 まあ、でもその曲は俺の柄ではないので、世界で君が頑張ってなくても好きって言いたい歌いたい。

悪意を憎しみを罪悪感を親愛を信じて。

画を描き始めて、少し気持ちが上向きになった。かと思いきや、当たり前だがその場で勢いで描いたのではなく、もう少しデッサンや構図を工夫して良い画を描こうとして、数日筆が止まっている。

 それに、仕事も生活もうまく行ってない。

 先日誕生日を迎えた。おっさんだなあとしみじみと思う。色んなことが今くいかないまま、歳をとり、様々な物が駄目になって行くことを考えると、憂鬱でしかない。

 小説は、自分ではそれなりに手ごたえがある物が書けているけれど、お金にはならない。画は描き始めて楽しいが、形になるには何年も必要だろう。

 自死や自暴自棄や本格的な逃避が、二十代の頃よりずっと身近に感じられてくる。

 ほんの少しの救いは、文章を、芸術を、若い頃よりかは理解できたような気がする。同じ映画や絵画や小説を読んでも、今の自分の方が美点を見つけられている実感がある。小説も、自分の書きたいことが書けてきているように思う。

 でも、実生活が酷い有様なら、もう駄目だ。当たり前の話だが、それなりに精神的にも人並みの生活を、「幸福!!!」を、土台にしなければ人生は、創作は難しい。

 何度も、大丈夫だと自分を騙し騙し生きてきたけれど、駄目かもしれないと思い、しかしまた、大丈夫だと薬や他人、他人の作った物に頼るのだ。

 そうやって、何かを、妄想を綺麗な形に作らねばと、虚妄に秩序を与えて良く編集しなければと思いつつ、気晴らし、憂さ晴らし、筆は進まない。

 雑記

肉体労働終わりに渋谷でアルコール。ipod再生すると、スパンクハッピーの麻酔が流れ出して最高に哀しくて幸せなんだ。数分間は数十分は。

ねえ、からだも こころも 何にも感じなくなってるのはなぜ

木村泰司『印象派という革命』今の日本だと人気がある印象派だが、フランスの絵画の歴史の中での立場を歴史と共に解説。古典⇨ロココ主義⇨新古典主義ロマン主義バルビゾン派クールベやマネの出現⇨権威から酷評された印象派展。画家の経済状況等も書かれており、新しい絵画の歴史が分かる

アマプラでゴッホドキュメンタリー映画見ようとしたら、耳切って頭おかしい、みたいな導入でばぐった脳がフリーズしたので停止した。ゴッホを病人扱いするのは、それが事実でも頭おかしくなるから止めて欲しい。現実からめを背けるにも体力とかねが必要で、中年でも中学生のような思想のまま

岡本かの子『鮨』また読む。とても好きな短編。食べ物を口に入れるのがどうしてもできない少年のために、母親が清潔な道具を揃え、色のついた上等な食材を薔薇色の手に乗せ、不格好に握る。身体が良くなった息子は、父に甘やかされ放蕩を覚え母を失望させる。優しさと虚しさがさらりと描かれている。

ドキュメンタリー映画ゴッホ 真実の手紙』をまともに見るのがつらくて、大好きな『コオリオニ』をながらみすることでしのごうとしたら、大好きな佐伯さんを描いてた。筋張って神経質で繊細な本物とは勿論似てないのだが、ファンのフィルターを通したらこう見えるという一例

映画でゴッホ
最も効き目の高い薬はやはり愛と家庭なのだ
って語ってるの、きついな。

犯罪自慢や酷い話をする人の、瞳がきらきらと輝くのを見ると、虚しくなるしわくわくする。

親愛や信仰のごとき真剣さを人や作品から見いだすとき、満たされて、しかしそれも長くは続かないと思う。我が儘な俺!

成瀬巳喜男の設計 美術監督は回想する』成瀬作品を始めとして多くの東宝映画の美術監督をしていた中古智へ、今は失われた「撮影所の映画」について、そして成瀬巳喜男の映画について、蓮實重彦がインタビューをする。めっちゃ読み応えがあり面白い。え、これセットだったの?と 初めて知る

のは単純に面白いけれど、それに加えて成瀬巳喜男の狭い家、こぢんまりとした六畳間、ひなびた町(セットも)といったこだわりをどうやって成立させるかを、美術監督が苦労して作り上げる姿は貴重な記録だ。映画にお金をかけられる時代の幸福な制作記。勿論映画への愛と知識溢れる蓮實のインタビュー

が素晴らしいし、中古が、『乱れる』のラストで具体的にカメラがどう動いてと説明をしながら、高峰の演技、カメラ、演出が素晴らしいと語る場面は、映画を見た震えが蘇った。成瀬巳喜男本人が雄弁に語る姿(本)は知らないので、身近な人物の熱のある話はとても有難い。

 もしかしたら、今の三十代の俺が一番好きな日本の映画監督は、成瀬巳喜男かもしれない。成瀬巳喜男高峰秀子とセットになっているかもしれないけれど。二十代の頃は成瀬巳喜男のすごさをいまいち分かっていなかった気がする。派手さはないが、実に素晴らしいのだ。余計な物をそぎ落とした、しかし人の生き方を捉える力。構図の美しさ、控えめさも、雄弁ではないことも大きな魅力だ。

『ファン・ゴッホ 巡りゆく日本の夢』読む。ゴッホ日本画についての本。定価6000円(図書館で借りた)で大判紙質発色よし!なので豊富な図版が見られるのが嬉しいし、中身もしっかりとした堅実な内容。手紙引用、当時のパリの日本ブーム、ゴッホが日本への興味が薄れた後も配色や構図の親近性。

何もできない。この先も嫌なことばかり。寝たり雑務をこなしたり。でも気分は晴れず、家にあるラリー・クラークの写真集タルサを見返す。どうしようもない奴らの生活。どうしようもないやつらに憧れていた、若い頃のラリー・クラーク。この世界に浸るには年をとりすぎたのにさ、やっぱ好きなんだ。

マルグリット・ユルスナール『青の物語』また読む。20ページにも満たない表題作がとても好きだ。宝石を狙う強欲で愚かな商人たちが迎えるのは、慰め、輝き、いや、多くの者が不孝な結末へとあっけなく落ちる。しかし、小さな光を見つける者もいる。読書の度、酷薄さと不可思議に魅せられてしまう

新刊で、知らない外国の作家の本を読んだ。自死を決めた人が集まる廃村にきた主人公がそこで暮らすこと決め、そこに来た色々な人と話をする、といった内容。久しぶりに本当に合わなかった。主人公なんで廃村で暮らせるの(食料他)みたいなリアリティ、苦しみ皆無。生きている人間ではなく

作者(物語)に都合の良い登場人物のモノローグ。げんなりする。様々な人間がそれぞれの価値観で生きている、ということを無視したら離乳食のような物語になる。消化しやすいのが悪ではないが、自死を覚悟した様々な人達が訪れる、という設定なのに主人公は洒落者チート主人公の言葉で皆いい気分!みたいなのキツいな。

渋谷Bunkamura古代エジプト展見る。この時期の美術館はどこもガラガラだったのだが、結構人がいた。プリミティブなデザインが面白いし、箱と身体が一体化したような像等奇妙な形でめをひく。赤(臙脂)、緑(ターコイズブルー)が多く使われる印象。動物の(頭部や姿で現れる)神々も可愛らしい。

宗教、人間にとって死の克服、人生の救いというのは大きな命題で、それぞれの宗教(地域)によってアプローチが似ていたり独特だったりするのが面白い。今の日本で神様や超常的な者を信じる人はやや少数だと思うが、ゲームやアニメなどの中で、神様はペット(気まぐれな猫のように)のようにして生きている

ギャラリーで、何でも骨董談!という題で販売をしていた。入口に古伊万里岸田劉生、そういう系統かと思いきや、すがきしお、瀧口しゅうぞう、高松次郎の絵があり、マイセン、シェリー等のティートリオ、エミール・ガレと混沌というかバラエティ豊かで面白かった。

練習中でしかないのだが、自分で画を描いている中でエル・グレコの絵画をみると、色と聖人や天使が溶け合い広がるような印象を受けた(だから等身、身体が縦に伸びる)。ドラマチックな構図の美しさもあるが、人が象徴化されてイメージが色として純化されるような、神秘的な魅力を感じる。

西村賢太『瓦礫の死角』読む。貫太物の続きで、いつもと同じ。いつもと同じく、じっとりと湿り不快で面白い。ただ、著者の生活や健康に関する文章を目にして気分が落ちる。私小説の若くて愚かで傲慢な十代の『貫太』、年老いた『貫太』も、他人事ではない。ただ、人生も小説もおそらく続くと思わねば

気まぐれに、ネットに一作だけアップしている自分の小説を、読みやすいように改行だけする。数年前に書いた物で、読みにくい上に内容も酷いなあと思うが、それしか書けないのだった。酷い話しか書けない(実際はそこまで思ってないが)。酷い人間が出てこないなんて、がっかりするだろ。優しい物語って?

川端康成『みずうみ』再読。新しい版の新潮文庫の、ストーカーという単語を使った無理矢理な褒め言葉が面白い。ストーカー、というよりもありもしない美しい女性の影を追っているのだから、ストーキングによる、相手を手に入れることでの自己実現とは少しずれていると思った。重なる点もあるけど。

ストーカー小説として読むとつまらないと思う。人々の感情がゆらぎ、移り行き、一部分では呼応しているような様を見るのが楽しみだと思った。川端康成の小説が非常に優れている(と思う)し好きなのは、人の感情を表現するのが巧みで、つまり人の感激屋で冷淡な様が四季のように豊かに語られること

が恐ろしく良いのだ。打算計算狡猾で生きる者も無垢のような幼稚さや親愛が顔を出すのも、矛盾しない。或いは、ある人物は一時やってのける。加えて着物や空や蛍といった美しさや身体の醜さを、さらりと描いて配置する。醜さも美しさも案配よく的確に構成するのが一等上手い。大好きな作家だ。

川端康成『新文章讀本』また読む。川端康成の文章、作家論。捉えどころのない、魅力的な小説を書く作家が、真面目な先生のような言葉で紹介をするのが奇妙でほんの少し退屈で、しかし面白い。泉鏡花横光利一にやや贔屓している(その魅力を引用し伝えている)けれど、鏡花や里見諄の文を褒めつつ

彼らの文が一歩誤れば美文調に落ちる危険にも言及している。谷崎も褒めつつ、初期の華麗な文に通俗性を感じる等、批評が鋭く面白い。基本的に多くの作家を褒めている(引用して美点を完結に述べている)のも良いと思う。この本では三島由紀夫が登場しなかったのはなぜだろう。後、太宰治が出るが、

褒めるというよりかは、半ばで急逝してしまったことをさらりと書いている。大衆的な作家さえ美点を見つけ褒めてるのに、太宰治を嫌う(評価しない?)のが面白い。鏡花は非常に評価していて、林芙美子岡本かの子もそうだった。美文調に堕する、というのを戒めていた自身の、ふらつきのような

めまいのような、しかし確かな文を思う。当たり前だが、感覚的な美点が多く見いだせる自身の小説を、批評眼を持つ川端は墨絵のようにおぼろげに、しっかりと、上手く配置していたのだろう。ここで、美文調や悪文について思いを巡らせる。俺が一番好きな作家はジャン・ジュネ川端康成。ジュネは

悪文と言うに相応しい。しかし魅力が勝るからいいのだ。エゴイストのポエジーがそこかしこにある。小説というよりかは、散文や詩集や語りかけが混交しているようだ。森茉莉のエッセイも少し近い所にある(彼女の小説は苦手)。本当の悪文は読むと嫌になり語りたくもない物だが、正直ジュネを初めて

読んだときは迷子になっていて、途方に暮れ、しかし気になり何度も読んだ。川端康成の小説も分かりやすいように見えて、一つの作品を数年後に再読すると、愛情や冷淡さや無関心にぞっとするし心地良い。人を迷子にする文は、悪文や作家の名文の中にある。いつでも迷子になりたい俺は、それを探る。

 

 悪文と言うのは、誉め言葉にはならない。俺が耽美という文字を見て、実際の作品を見てがっかりするのは川端康成の言う否定的な意味合いでの美文調のものばかりだからだろう。

 でも、俺はそういう物が好きで、自分の小説も悪文、美文調に堕しているのか、と思いつつもそこをどうにかくぐりぬけた物を書きたいと思う。ジュネのように、エゴイスティックで、読むほうはたまったものではないが、しかしポエジーに愛情に憎しみに彩られている文。

 小説にはポエジーが必要だ。マラルメボードレールランボーヴァレリーのごとき音の文の快感を孕んだ文章、小説があるとしたなら、それはとても誇るべき美点ではないのだろうか。

 誰にも読まれない、悪文まがいの小説を書いて、このまま自死を夢想するなんて、愚かだと思う。

 でも、俺の救いは結局、小説や美術しかないのだ。小説や美術が俺のことなんて眼中になくても。

 ひび、生活が辛く精神的にまいりながら、日々を浪費している。素晴らしい、それなりに素晴らしい、まあ、すばらしい物に触れることを恐れている。

 それでも、まだ、かけますように。自分の悪意を憎しみを罪悪感を親愛を信じて。